Cuvie先生のバレエ漫画『絢爛たるグランドセーヌ』。第2巻ではヒロイン・奏はプロを目指す小学生栗栖さくらと巡り会います。

栗栖さくらは小学生にしてすでに自分の将来像をプロのバレリーナと見定めており、ジュニア部門のバレエ・コンクール上位常連。日々のすべてを練習に捧げることにいささかのためらいもありません。

パリ・オペラ座バレエ学校しかり、ワガノワ・バレエ・アカデミーしかり、厳しい入学試験をくぐり抜けた者だけが学ぶことを許され、体型・体質・柔軟性・音感・感受性など複数の条件を満たす子だけにその流派を叩き込む学校が世界には存在すること、そうしたライバルたちに伍してゆこうと思えばもうTVを見たりゴロゴロするような時間は1分すらないことを知っている小学生・・・。お前、本当に小学生か?

体型や体質などは生まれついてのものだけに、0歳の時点で有利不利が本人の責めに帰さない部分で決まっているというのは理不尽な話ではありますが、それはスポーツも同じですよね。

ところが栗栖さくらの踊りには「完璧すぎて、教科書どおりすぎて、大人が巧みに創りあげた一つの作品を見ているような気分になる」という弱点がありました。


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プロを目指すことの熾烈さと、その過程で抜け落ちてしまうもの

バレエの世界と同様に、音楽の世界でもプロを目指そうと決意したその時点で普通の小学生・中学生の生活とは隔絶した日々になってしまいます。

中学生でプロデビューしたヴァイオリニスト・千住真理子さんは中学・高校のころは平日で7時間、休日はその2倍の練習に取り組んでいました。

10代の彼女はそうやって技術を磨き、パガニーニでもサラサーテでも弾けるようになることにスポーツ的快感を覚えていましたが、15歳で毎日音楽コンクールで1位を獲得し、師匠・江藤俊哉さんに「これでもうあなたに弾けない曲はありません。ここから先はあなたの演奏で私を泣かせてください」と言われ、ハッと気付かされたそうです。

「自分の演奏は技術は達者だが、精神的な内容に乏しい」ことに。

しかしベートーヴェンやチャイコフスキーのような深い精神性を必要とする大人の音楽を子供が演奏するということ自体に矛盾があり、しかし子供のときに集中的に技術を習得しないとベートーヴェンもチャイコフスキーも演奏することが不可能であるため、プロへの道は理不尽としか言いようがありません。
だからなのか、どうしても「天才少年」の演奏は「大人に教えられた技術を完璧に再現しています」式のものになりがちで、そこから脱却するための「自分らしさ」を表現するための基礎となる「情緒」をつちかう様々な体験が犠牲になってしまいます。(千住真理子さんも高校時代に手塚治虫先生から「いろいろな経験を積んで大人になってほしい」と諭されていました。)
これぞまさに「完璧すぎて、教科書どおりすぎて、大人が巧みに創りあげた一つの作品を見ているような気分になる」のはなぜか? への回答と言えるでしょう。

音楽評論家・宇野功芳さんもこう語ります。
5歳か6歳までにピアノを始めないと、後でどんなに頑張っても一流のピアニストになれない。だから才能があるないっていうのは、始めたその時点ではわからない。誰だってある程度は弾けるようになっちゃう、これは技術だから。そこが演奏家の一番の泣き所と思いますね。それでみんな子どもの頃からやっている人は、そのまま音楽学校に入って、自分はピアノが弾けるし、音楽が好きだって思い込んでいるんですけど、実は才能もなければ、音楽が好きではないっていうケースもあるんですよね。非常に悲劇的ですよね。
このような場合、例えば国語とか英語のような一般の学科をすべてなげうってピアノに徹していて、大学を卒業するころになって「自分には何もない」ということに気づくわけですから、プロを目指そうということがいかに無鉄砲なことかおわかりいただけるでしょうか。

バレリーナしかり、音楽家しかり、プロを目指そうとするとそこに自分の人生の基礎ともいえる少年・少女時代をほぼ100%つぎ込むことになるため、事実上のギャンブルになってしまいます。
それでも構わない、そうなっても後悔はない、いやそもそも負けるということはさらさら考えてもいない。そういう闘争心に満ち溢れた人のうち、ごくごく一握りが本当にプロとして成功を勝ち取るのでしょう。

『絢爛たるグランドセーヌ』第2巻を読んで、「プロ」を志すとはどういうことか? 改めてその厳しさに思いを巡らせずにはいられませんでした。


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<参考資料>