THE BLUE HEARTSの名曲「TRAIN-TRAIN」の一節には「弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく」とあります。これはどうしてでしょうか。

弱いものがさらに弱いものを叩くと、その叩かれた弱いものは自分よりももっと弱いものを見つけ出して叩き、、、と憎悪の連鎖ではありませんか。

大卒が高卒を差別し、高卒が中卒を差別し、、、といった構造はどこでも見られます。

なぜこういう心理に人は陥ってしまうのでしょうか。

『アンネの日記』の翻訳者深町眞理子さんは『目で見る「アンネの日記」』の解説に「時代を超えて語りかけてくるもの」という一文を寄せ、その中でこう述べています。

もともと人間には、つらいこと、満たされぬことがあると、虐げる側に怒りを向けるかわりに、より弱いもの、ほんのわずかでも自分たちの”横並び”の意識からはずれているものを見つけ、迫害することで、それをまぎらそうとする傾向がある。

その実例として第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ占領下のオランダでアンネたちが逮捕されたのもオランダ市民の密告によるものであること、またオランダ以外の占領地域でもナチスに協力するものたちがいたことを述べています。

私が思い浮かべるのは、日本特有の同調圧力というものです。同調圧力は、少数派の意見を持つ人、また異論を唱える人に対して暗黙のうちに他の人と同じように行動することを強要する事です。

2020年には新型コロナウイルス感染症の影響により、スポーツやコンサートなどの興行、飲食店の営業など様々な業態で営業の「自粛」が求められ、これを批判するものは激しいバッシングを受けたことをはっきりと覚えています。
私は「人がバタバタと死んでいくような恐怖の病でもないのに、バカバカしい。他の病で死んでいく人の数と比べてみろ」とずっと思っており、
という記事で「自分たちを後から振り返ってみろ」と主張しました。そこでは、

「当時は政府が言っていたから」「みんなしていたから」「あのときは不安だったから」といって自分のしていることを正当化し、振り返りは行わないのでしょうか・・・? それでは黙って太平洋戦争に協力しつつも戦後は何事もなかったかのように日常に復帰した人=いざというときは政府や昭和天皇に責任転嫁する無責任な戦争協力者、つまり当時の国民のほとんどと同じではありませんか。
とも書いており、大多数の日本人は自分たちがやったことからほぼ確実に目を背け続けるだろうとも指摘しておきました。

それはさておき、上記のような「自粛を批判する者たち」こそまさに「ほんのわずかでも自分たちの”横並び”の意識からはずれているものを見つけ、迫害することで、それをまぎらそうとする」実例です。本来であれば、この新型コロナウイルス感染症の脅威はどれくらいのものなのか、他の感染症と冷静に比較し、そのうえで対応策を明確に打ち出すべきでした。

ところが大多数の国民はTVやネットニュースに煽られ、沸騰した世論、これを利用する東京都知事に突き上げられる形で果たして必要だったのかどうか、また効果の検証が不明確な緊急事態宣言を出すという事態=基本的人権の尊重を国家の理想としながらもやすやすとそれを破棄してしまうことになってしまいました。(私はTVを一切見ないのでこのパニックから無縁でいられました。)

こう考えると「弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく」心理というのは、まさに一般国民の当たり前の姿であり、「弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく」という歌詞は何のことはない、私達の姿を映し出す鏡でしかなかったのです。



真実とかけて太陽光と説く。
その心は?

眩しくて直視できない。