ハイドンの交響曲はめっきり廃れてしまったのでしょうか。演奏会のプログラムでほとんど見かけなくなりました。

いえ、その兆しは20年以上まえからありました。

音楽評論家・宇野功芳さんの1990年代の著作にも「ハイドン凋落が著しい」と書かれており、21世紀になってからはその傾向はますます強まっているようです。
そういえば自分も実演でハイドンの交響曲に接したことって皆無に近い気がします。

モーツァルトなら『ジュピター』とか『プラハ』とか普通に聴くんですけどね・・・。

こうなってくるとハイドンの演奏を堪能したい! と思ったときはCDに頼らざるを得ないですね。
でもハイドンの交響曲でかっこいい演奏はどれだろう? と思うのが人情。

古楽器系の演奏でブリュッヘンやアーノンクール、彼らに影響を受けた指揮者のCDもたしかに悪くはないのですが、私はどうしても「なんだか痩せこけた感じがするなあ」という印象を拭うことができません。
技術的には研ぎ澄まされていて快適な音風景が広がっているのに、そもそもそういう技術自体が20世紀までに確立された教育システムの賜物であり、18世紀にはそういう合奏水準だったとは考えにくいだけに、どうしてもスマホを片手に握った現代人が昔の人のフリをしてるだけなんじゃないの? という気持ちになってしまうのです。

ではいったいどんなハイドンならいいのか? と問われると、私はどうしてもパブロ・カザルスのハイドンがかっこいい、いや剛直だ! と推薦したくなります。

私の手元にある交響曲第45番『告別』を収めたCDのライナーノーツにはこう書かれています。
彼の指揮演奏のディスクを聴くと、現代の洗練されたテクニックとは無縁の、気迫で音楽に対した無骨な指揮者ぶりであることは、誰にも分かる。しかし、彼のタクトから、より正確に言えば、彼の清新から引き出される音楽には、なんと豊かな生命とヒューマンな温かさが溢れているのだろう。
これは本当にそのとおり。
剛直な演奏スタイルは一見ぶっきらぼうでありながらじつは音楽への慈愛に満ち満ちた「父性」そのものです。一音一音は引き締まっており、オーケストラの団員一人ひとりがカザルスの要求によく従い、また献身的に音楽に取り組んでいることが伝わってきます。

やがて訪れる「告別」の場面では表情が一変。なつかしいメロディを弦楽器が歌い始めます。それでも甘さ一辺倒に陥るのではなく、あくまでも貴族社会の一部であった当時の音楽らしく気品をたたえたカンタービレを聴かせてくれるのです。

カザルスのハイドンには東京のオーケストラから出てきそうにない音がほんとうにぎっしりと詰まっています。
もしハイドンの交響曲でかっこいい演奏は? と尋ねられたら、私はだまってこのCDを差し出すでしょう・・・。