精神科医フランクルの有名な手記『夜と霧』では、ナチス・ドイツ占領地域の各地に設置された強制収容所を転々としたときの極限状況下にある人間の精神状態を克明に描き出し、20世紀に発表された著作のなかでもひときわ価値がある一冊となっています。

フランクルの思想や人となりを追った朝日新聞記者・河原理子さんの本『フランクル『夜と霧』への旅』では、『夜と霧』をはじめとするフランクルの著作そして彼に関わった人びとへの取材などを通じて彼が考えたことや21世紀に生きる私たちへの教訓を浮かび上がらせています。


agony

ナチスを告発したかったわけではないフランクル

『夜と霧』を読むと、必ずしもアウシュヴィッツでの記録ではないということに気付かされます。そして、ナチスを告発したいわけでもなく、またユダヤ人の被害を訴えたいわけでもないこともまた明らかです。

彼がこの手記で訴えたかったのは、極限状況下にあってもなお人間は人生にイエスということが可能であり、またそのような選択肢を選びうる人間の毅然とした「意志」だったということです。
苦悩を経て、いや苦悩のさなかにあるからこそ気づいた世界の美しさ、強制収容所でもまだ残っていた人のささやかな優しさ。ガス室を発明したのが人間であれば、ガス室の中でも祈ることができるのもまた人間であること。
こうした描写は「人間とはなにか」という問いに対して一つのヒントを与えているでしょう。

人をグループ化して捉えることの危うさ

フランクルはこのような考えであったため、戦後のドイツやオーストリアでも彼の評価は難しいものがあったようです。戦後いちはやく集団的罪過を否定したため、とくにユダヤ人から反感を買ってしまいました。

すなわち、ある集団たとえば「ドイツ人」とか「ユダヤ人」のような本人の資質や努力などでは変えることができないもので区分けされる集団を「悪魔」とか「戦争責任者」のようにラベルを貼って一括判定してしまうことは、まさに数百万人の個性ある人びとを「ユダヤ人」の名の下に抹殺してしまうことと同じなのです。

ホロコーストの犠牲になったユダヤ人は600万人と言われています。
600万人といっても、そこには一人ひとりの人生がありました。すなわち1+1+1+1+1を果てしなく積み重ねていった結果の600万であり、十把一絡げに語ることができるものではありません。

こう考えると、「中国人」や「日本人」といった考え方も幻想であり、中国人も日本人もなく、ただ1人の人間がいるだけでしょう。
また「日本人」という考え方もあまりにも大雑把すぎます。人生に平均はなく、ただ個別があるだけなのですから・・・。

普段私たちが接する情報にも、やはり「〇〇党を支持する人」「〇〇人」「〇〇の階層に属する人」といったカテゴライズがなされており、またそのような区分けを当然のように受け止めてしまいがちです。
しかし「〇〇党を支持する人」の実態こそまさに1+1+1+1+1であり、すべての人にはそれぞれの意見や、そのような意見をもつに至った経験があることを常に忘れてはならないのでしょう。

『フランクル『夜と霧』への旅』は、背景にホロコーストがあるだけに人間の心の最も深い場所へ降りてゆかなくてはならないきわめて真剣なテーマを扱っている本であり、それでいてフランクルの考え方をわかりやすい言葉で噛み砕いている良書であると思います。
この記事でとりあげた集団をグループ化してしまうことの陥穽のほかにも、あえて苦悩を引き受けることの意味など、フランクルの思想の真髄が掘り下げられており、折に触れて読み返す価値があるでしょう。