2021年5月6日、日本の文化芸術の復興・継続のために集う演劇・音楽・映画・美術の四者による共同体WeNeedCultureにより首相官邸前でサイレントスタンディングが行われました。

私は仕事の都合で行くことができませんでしたが、このような取り込みに心からエールを送りたいと思い、上記のようなツイートをしました。

言うまでもなく、新型コロナウイルス感染症のせい・・・、ではなく感染症「対策」のせいで文化芸術関係者は表現の場を事実上奪われ、経済的にも追い詰められ、またそれ以上に「自分がこれまで取り組んでいたことはなんだったのか」という精神的な打撃も深いはずです。

私自身もヴァイオリンを弾き、また足繁く演奏会に足を運ぶ身としては音楽家たちの活躍の場が無くなってしまうことに深い悲しみを感じ、また非科学的かつ社会全体を多面的・総合的に俯瞰した形跡が伺われない、ポピュリズムに堕した愚者の政策を実行する東京都知事、また政府に対して強い怒りを覚えるものです。

ご存知のように緊急事態宣言とはそもそも感染拡大のペースを落として時間を稼ぎ、その間に医療体制の充実をめざすのが本来の目的だったはず。

ところが医療体制は2020年から1年経過した今も(日本の病院の8割を占める私立病院の事実上の協力忌避により)大して拡充せず、それをどうにかするのが政治の役割であるはずなのに国民にのみ負担を求め、企業倒産と失業、自殺の増加、税収の落ち込みによる財政赤字の拡大、教育や文化活動の機会の逸失、人との交流を遮断することによる少子化の促進などがはっきりと各種統計から確認される今、現状の感染症対策は実質的には日本の持続可能性を大きく毀損する政策と言わざるを得ません。

この「感染症対策」により真っ先に槍玉に上げられたのが飲食店であり、また文化芸術に携わる人びとでした。
言うまでもなく文化芸術というのはそのアーティスト単体で成立しているものではなく、例えばヴァイオリニストがプロとして社会に羽ばたくためにはすぐれた師との巡り会い、学校教育の充実、「食える」だけのマーケット=聴衆の存在、聴衆自身がこの音楽に耳を傾けたいと願う感受性を育む文化的基盤・・・、といった様々な因果関係が背景にあります。

このような時間の「横軸」だけではありません。
ヴァイオリニストがなぜある日の演奏会でこのような表現をしたのか、この音程、弓使い、フレージングをなぜ採用したのか。表現としては1秒であってもその奏法は往々にしてこのヴァイオリニストひとりの創意工夫ではなく、歴史によって培われてきた奏法の積み重ね=伝統を師弟関係により伝授すること、そして自分が師となった時にまた弟子に奏法を譲り渡す、といった時間の「縦軸」をも音楽は包摂するものでもあります。

そうなると、ヴァイオリニスト1人を育成するためには幾世代にもわたっての文化的資本の形成が当然必要になり、すなわちこのような連綿とした伝統の受け渡しこそが文化であり芸術であり、そして人間がただの動物ではない、「人間」であることの証明であると言えるでしょう。

私は、現代人の責務とは先人から受け渡されたものの継承であり、その意味で一人ひとりが伝承者であると考えています。このような観点から、現状の文化活動への非科学的制限は文化活動の衰退=私たちの世代での伝統の断絶を招くものであり、私はこれに対し強い嫌悪感、そして将来世代を意識しない振る舞いへの軽蔑感を抱くものです。

このたびの抗議活動を知り、「文化」という松明を一市民として次世代へ確実に手渡そうという思いを新たにしました。どのような状況であっても、それにどう対処するかという判断の自由は私たち一人ひとりに委ねられているのですから・・・。