『アンネの日記』につづき、彼女らフランク一家を支援していたミープ・ヒースのお話、アンネ・フランク自身の伝記、さらには戦後アンネの父オットーが再婚したことにより義理の姉となったエヴァ・シュロスの潜伏生活からアウシュヴィッツでの体験、そして奇跡的生還と戦後の生活を語った『エヴァの震える朝』、さらにはアンネ・フランク・ハウスが編纂した写真集『アンネのこと、すべて』、文藝春秋社から発刊された『目でみる「アンネの日記」』など、これまでアンネ・フランクを中心に本を読み進めて来ました。

それだけ『アンネの日記』が圧倒的な読書体験だったのです。

やがて私は加害者はどう考えていたのか? そもそも加害者という自覚はあったのか? ということが気になり、アウシュヴィッツ強制収容所長だったルドルフ・ヘスの手記を取り寄せました。

昔、夏休みにドイツを旅していると、ネオナチが"Rudolf Höss in die Walhalla"がミュンヘンの広場で横断幕を掲げて立っていました。私はそのことを当時の日記にこう記しています。

‘Rudolf Hess in die Walhara’と書かれた白い幕、松明を持った若者たちが、警察の作ったらしいフェンスの向こう側でじっと立っていた。何なのかよく分からなかった。ルドルフ・ヘス。どこかで聞いたことのある名前である。もしかしたら『プラハの春』に出てきた人物だったかもしれない。とすればヘスは東ドイツの政治家だろうか。人だかりの中に、緑色の服を着た警察官が何人もいた。よく分からないので私は一人の警察官に尋ねた。‘Excuse me, sir. What group is this?’ すると、‘Do you know Rudolf Hess?’ ‘No,’ ‘知らなくていい. 彼はヒトラーの片腕であった.その彼が、18年前の今日、死んだ. 彼らはネオナチだ’ ‘ああ、極右のグループですね. ’ すると、突然目の前にいたドイツのお姉さんが ‘Far right, yes.’と突然振り返って説明した。そうか、ネオナチか。だからヴァルハラなどという単語を使っているのかと、納得した。フェンスの外側で大声をあげていた若者たちは、よく聞くと、ナチは出て行けと叫んでいるようだった。
そもそもルドルフ・ヘスやヴァルハラといった単語のスペルを間違っている時点で当時の自分は薄い知識しか持っていなかったことがバレバレです。
さらには「18年前の今日」とありますが、ヘスは1947年に死んだので18年前ということはありえません。英語が聞き取れなかったのか、間違えて記憶してしまったのかのどちらです。

その後、遠藤周作が書いた、アウシュヴィッツで他人の身代わりになって死んだコルベ神父の文章を読んだり、アンネ・フランク関連書籍を読み進めることでヘスという人物の輪郭を把握し、ついには彼自身の手記を読むことにしました。

その中身とは・・・。

ルドルフ・ヘスは真面目だった

まず訳者のまえがきによると、ヘス自身は異常者ではなく、はっきりした義務感を持った人物であり、職務に忠実、家庭では良き父、良き夫であり、酒も遊びもさしてたしなむことはなく、ある程度の教養すら持ち合わせているという、まあ今の日本でいえば国立大学を卒業して公務員になりました、的な立場の人でした。

彼の、いやナチスの恐ろしさというのは、そもそもそういう「どこにでもいるような普通の生真面目な人」が大量虐殺を実行したという点であり、普通の人がそれをやったということは私やあなたが次のヘスになる可能性があるということです。

「あれは命令だったから」「そういう時代だったから」という弁護もできなくはありません。
しかし命令とあらば、それをタテにどんなことでもやってしまうということであり、その責任が「命令だったので」で免責になるというなら、それこそ「無責任」です。


訳者・片岡啓治氏はまえがきでこう書いています。
ナチス・ドイツは、たんに暴力的矯正によってだけではなく、まさにヘスであるような無名の普通人たちの自発的な参加、行動がなければ、成りたちもせず、存続することもできなかった。
日中戦争、太平洋戦争も様々な形で国民の協力があったからこそ数年にわたり継続が可能だったわけであり、その意味で昭和天皇、日本軍だけではなく日本国民にも加害者としての責任は否定できないでしょう。

社会がどんどんおかしいな、と思う方向へ流れていっても、その結果がどうなるかは証明できませんから、異端者扱いされることを恐れて声を上げないでいると、「おかしい」が日常になってしまい、もう後戻りできない状態になってしまいます。
ドイツも日本も、その意味では同じ轍を踏みました。が、そのルートを作ってしまったのはどちらの国も普通の人びとが作り上げた世論といううねりであり、その形成にあたってはやはり無数の「ヘス」がいたはずです。

そう考えると、「真面目」っていうのは「その仕事」をするためにはいいのかもしれませんが、トータルで見ると有害なんじゃないかとすら思えてきます。
平凡な感想かもしれませんが、これから『アウシュヴィッツ収容所』を読み進め、自分の気づいたことを書きとめて行きたいと思います。