先日は『アンネの日記』についていくつかの記事を書きました。

アンネ・フランクとその家族、ファン・ダーン一家、そして歯科医デュッセルが2年にわたりアムステルダムの都心で潜伏生活を続けることができたのは、アンネの父オットー・フランクが経営する会社の従業員の密かな手助けがあったことは広く知られています。

そのなかの1人、ミープ・ヒースはオットーの部下でしたが、ナチス・ドイツ占領下のオランダでユダヤ人をかくまうことは投獄を意味し、ことによると死にもつながるものでした。

ミープ・ヒースは『思い出のアンネ・フランク』で、ユダヤ人の家族の潜伏生活を支援することを躊躇せずイエスと言ったことをこう記録しています。

(オットーは)ひとつ大きく息を吸って、それから言った。「ミープ、わたしたちが身を隠しているあいだ、だれかに面倒を見てもらわなけりゃならないんだが、あんた、その責任をひきうけてくれる気はあるかね?」
「もちろんですわ」わたしは答えた。
(中略)
「ミープ、ユダヤ人を支援する罪は重いよ。投獄されることはおろか、ことによると――」
わたしはさえぎった。「『もちろんですわ』と申しました。迷いはありません」。

ミープ・ヒースの他にも夫のヘンクことヤン・ヒース、コープハイスやクラーレルといった人たちが食料を差し入れたり、通信教育の名義人になったり、貸本屋から本を借りてきたりといった支援を続けていました。

当時こうした行為はオランダ全土で行われていました。ナチスに協力し密告するオランダ人もいる一方で、何の見返りも期待せず、ただ自分がすべきと思ったことを続けた勇気ある人々がこの時代、たしかにいたのです。

このミープ・ヒースはアンネ・フランクたちが秘密警察に捕縛された直後、危険を冒して隠れ家に立ち入り、散乱した家財道具のなかからアンネの日記を持ち出し、貴重な記録を救う結果になりました。彼女がいなければ『アンネの日記』も散逸し、戦後に平和へのメッセージが届くことはなかったのです。


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真の勇気とは見返りを求めない真摯な行為である

ミープ・ヒースは戦後数十年にわたり、アンネ・フランクらをかくまったことについて一貫して口を閉ざしていました。
自分は英雄ではない、あの時代は2万人以上のオランダ人が同じことをしていたのであって、『アンネの日記』の関係者として自分だけが特別扱いされることを希望しない・・・、ずっとそのような立場を守り続けていました。
ホロコースト記念週間として行われた行事のために渡米した彼女は、ニューヨークでの記者会見でもやはり「あの立場にいたらだれでもしただろうことをしたにすぎない、ナチに見つかれば殺されるとわかっている人たちを、みすみす見殺しにはできなかった、だから人間として当然のことをしたまでだ」と説明しています。

『アンネの日記』に影響を受け、アムステルダムやアウシュヴィッツを訪問した作家・小川洋子さんが彼女に面会したときのことを『アンネ・フランクの記憶』に書き記していますが、ごく質素なアパート、しかも80歳(当時)近い人にとっては傾斜がきつく、とても危険な階段を上り下りしなければならない、そういう建物に暮らしていたらしく、戦後も英雄としてではなく一市民として普通の暮らしをしていたことがうかがわれます。

本当の勇気とは何かを考えた時、私はこのように全く見返りを期待せず、ただ自分の内面に照らして行うべきことを淡々と継続した彼女の姿勢を思い出さざるを得ません。

第二次世界大戦末期ともなるとオランダも戦時経済下で一般市民の生活も逼迫し、空き巣や窃盗は日常に行われるようになり、また一人あたり7.5ギルダーの報奨金目当てでユダヤ人を密告する者もいました。貧すれば鈍すという言葉のとおり、生活が苦しくなれば普通の市民ですらこのような行為に染まることもあれば、ヒース夫妻のように自宅にも大学生を匿い、さらには8人の潜伏者を助けるために食料などを求めて体力の限界までアムステルダム中を探し回る人もいました。

時の流れはすべてを押し流し、当時の関係者はほとんど全員が幽明界を異にしました。
しかし『アンネの日記』や『思い出のアンネ・フランク』といった書物は静かに事実を語り伝え、真の勇気とは何かを、私たちに問いかけています。


注:ミープ・ヒースの言葉の引用元は『思い出のアンネ・フランク』からによるものです。