2020年5月末をもって芸能界を引退した渡辺麻友さん。
その後のネット記事では、「芸能界引退が惜しまれる人」というアンケートで1位を獲得するなど、たとえテレビ番組や劇場の舞台から姿を消したとしてもなお厚い支持を得ていることがうかがわれます。

2021年3月下旬の時点で、彼女はSNSを始めたりYouTubeチャンネルを解説したりといった動向がないことから察するに、ご本人としては芸能界へ復帰する意志が今なおないものと考えざるを得ません。
今では一般人となられた渡辺麻友さんについて多くを論じることにはためらいがありますが、ささやかながら27歳のお誕生日をお祝いするとともに「コンテンツ」としての「渡辺麻友」について若干考えてみたいと思います。

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永遠の未完成としての「渡辺麻友」

「コンテンツ」としての「渡辺麻友」とは、すなわち彼女のありのままの人柄を指すのではなくあくまでも「伝えたい姿を効果的に伝える」ことを職業としている「表現者」としての姿です。

もともと彼女はAKB48という、将来芸能界などで成功を収めるための一ステップ=アイドルとしてスタートし、そのなかで「ストイック」な「王道アイドル」としての地位を確かなものとしました。

これによって培われたイメージが『遠山の金さん』のようなドラマへの出演、NHK交響楽団との共演といったすばらしい機会をもたらしたことは疑う余地がないでしょう。
その延長線上に、AKB卒業後にミュージカル『アメリ』主演やヤクルトのCMに抜擢され、さらにはNHK連続テレビ小説『なつぞら』があることもまた明らかだと思います。

このように渡辺麻友さんは着実にアイドルから女優へ、未完成から完成へ、少女から大人の女性へ、いわばさなぎから蝶へ羽ばたこうとしていました。まさにその時、彼女は唐突に人前から姿を消し、そして芸能界引退を発表。SNSも閉鎖してしまいました。

あまりの潔い幕引きそのものが彼女のパーソナリティを象徴しているようでもあり、また未完成から完成への途上でその道が閉ざされてしまったからこそ、未完成であるがゆえのその美しさを私たちの胸に留めているのかもしれません。それこそが逆説的ではありますが、「未完成という完成」とも言えるでしょう。

芸能界引退は「健康上の理由」。このように発表されています。様々な憶測が飛び交いましたが、世の中には追究する必要もない真実もあると思います。今や一般の人となった渡辺麻友さんが幸せな日々を過ごしていることを切に願います。


芸能界に身を置くことでどう心は変化してゆくのでしょう

以下は私の個人的述懐であり、渡辺麻友さんと直接に関わるものではありませんが最近の感慨について書き留めさせていただきます。

渡辺麻友さんが芸能人として過ごした十数年間というのは、人生のごく一部であり、けして長い期間ではありませんが、そこで多くを感じることがあったものと思われます。

これはなにも彼女に限った話ではありません。早い人で小学生から中学生という多感な年代で芸能界という、一般社会から切り離された世界に身を置くことになり、普通では体験するはずのないことをその未成熟な精神で受け止めるしかなくなってしまった人たちは、どのように心の成長を遂げるのでしょうか。

たとえば「アイドル」という職業の場合、うまくいけばTVで引っ張りだこになる反面、些細な言動でバッシングが集中してしまいます。このような立場にあって、様々かつ膨大なファンの声を、それがポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、渡辺麻友さんを始めとするアイドルたちはどう咀嚼(スルー)し、自らの糧として大人になってゆくのでしょうか・・・。

このことについて私はずっと疑問に思い、また自分で選んだ道とはいえ胸が痛むこともありましたが、こうした疑問について一つのヒントを得ました。
じつは私はごく最近、『アンネの日記』を読み、当時13歳だったアンネが15歳になるまでに内面で大変な葛藤を経ていることをまざまざと実感し、こうした年代の1日というのは大人の1日とはまるで重みが違うということを嫌というほど悟ったのです。

たとえばアンネは1944年のある日、日記にこう書き記しています。

どんな不幸のなかにも、つねに美しいものが残っているということを発見しました。それを探す気になりさえすれば、それだけ多くの美しいもの、多くの幸福が見つかり、ひとは心の調和をとりもどすでしょう。そして幸福なひとはだれでもほかのひとまで幸福にしてくれます。それだけの勇気と信念を持つひとは、けっして不幸に押しつぶされたりはしないのです。
アムステルダムの隠れ家の中で過ごした2年の間、外へ出ることは「死」を意味していました。だからこそ彼女は「書く」という行為を通じて自分の心の中へ降りていくしかありませんでした。日記のなかで「キティー」という架空の友人に語りかけることで、自分の内面を見つめ、成長していったことがはっきりと読み取れます。これはもはや日記を越えて文学です。

こうして日々生への希望や周囲との葛藤を書き記すことで自己を少しずつ確立し、少女から大人への階段を登りきろうとしたまさにその直前(1944年8月)にアンネらは秘密警察に捕縛され、日記は途切れています。

私が『アンネの日記』をここで「ヒント」とした理由は、そもそもこのような記述が産み落とされるに至った戦争や人種差別といった様々な問題以外にも、渡辺麻友さんを数年間応援してきた身として「アイドルという職業も、やはり普通の日常ではありえないようなことを日々経験し、そのなかでどういう葛藤があり、どう自分の精神的成長へ結びつけているのだろうか」と連想せざるを得なかったためです。

おそらくほとんどの場合、「私の考えすぎ」で片付けられる問題だと思います。平和な時代のアイドルと戦時中の潜伏生活を並列して語るのは飛躍しすぎでしょうし、アイドルを文学的な観点から語り過ぎているでしょう。

しかしもしかするとごく少数の人は、アンネのように様々な経験をもとに内面での様々な葛藤を経て、やがては表現者として大輪の花を咲かせることがあるのかもしれませんし、あまりに多くのものを見すぎたがためにその道を引き返すことになるのかもしれません。

これからも渡辺麻友さんに喩えられ、また彼女を乗り越えて新たなアイドル像というものが打ち立てられることになると思いますが、そのとき私たちはその人に対してどのような言葉をかけたらよいのか・・・。ついそういうことを深く考えてしまいました。