なぜいままでこれほどまでに素晴らしい本を手に取らずに済ませていたのか? そう思えてならない『アンネの日記』。600ページもあって、なんだか敬遠していました。でも読みすすめていくと思春期の少女がいろいろな葛藤を経て少しずつ大人への階段を登っていく様子が書き記されており、その未来がどうなるかは嫌というほどわかりきっているだけに、ページをめくりながら深い感慨を覚えずにはいられません。

1942年夏から1944年夏まで2年にわたって続いたアンネの日記は、その文章量の半分がなんと1944年になってからの8ヶ月に集中しています。
この8ヶ月の一日一日が、彼女にとっての精神的成長を物語るものだと言えるでしょう。
事実、後半半分に名文・名言が集中しているのです!

中には、強制収容所での体験を綴ったフランクルの『夜と霧』をも思わせる記述すら見られるのです!
精神科医の見た光景と、中学生がたどり着いた観照が同じだとは・・・!?

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アンネが窓から見た景色

アムステルダムの中心部にある父親の事務所の一角。隠し扉で隔てられた僅かな世界が彼女たちのすべてでした。外へ出ることは「死」とイコールでしたから。

ある時アンネは初恋の人ペーターとともに、屋根裏部屋の窓からわずかに見える町並みと青空を眺め、ひとつの思いを胸にします。
わたしは、ときどきひらいた窓から外の景色をながめていましたが、そこからは、アムステルダム市街の大半が一目で見わたせます。はるかに連なる屋根の波、その向こうにのぞく水平線。それはあまりに淡いブルーなので、ほとんど空と見わけがつかないほどです。

それを見ながら、わたしは考えました。「これが存在しているうちは、そしてわたしが生きてこれを見られるうちは――この日光、この晴れた空、これらがあるうちは、けっして不幸にはならないわ」って。
また別の日には、日記にこう記しています。
どんな不幸のなかにも、つねに美しいものが残っているということを発見しました。それを探す気になりさえすれば、それだけ多くの美しいもの、多くの幸福が見つかり、ひとは心の調和をとりもどすでしょう。そして幸福なひとはだれでもほかのひとまで幸福にしてくれます。それだけの勇気と信念を持つひとは、けっして不幸に押しつぶされたりはしないのです。
閉ざされた空間のなかで、彼女の心は確実に成長を遂げていました。否、閉ざされていたからこそ、わずかに見える青空や街並みなどに心を動かされ、かえって「美しいもの」に対する感受性を育むことができたように思えてなりません。

フランクルが見た景色

同じ頃、ナチスにより囚われの身となった精神科医学者フランクルは強制収容所での過酷な労働の日々に耐えていました。
戦後まで生き残ることができた彼は後年『夜と霧』において、強制収容所の経験から「人間とはなにか」を透徹とした眼差しで描き出すことになります。
彼はある時、アンネと似たような感情を抱いたと思われることを書いています。
とうてい信じられない光景だろうが、わたしたちは、アウシュヴィッツからバイエルン地方にある収容所に向かう護送車の鉄格子の隙間から、頂が今まさに夕焼けの茜色に照り映えているザルツブルクの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うっとりとしていた。わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのに――あるいはだからこそ――何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。
さらには収容所では仲間がアルプスに太陽が沈む光景を見せようと点呼場に呼び立てたことをこう記録しています。
わたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄(くろがね)色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が拡がり、水たまりは燃えるような天空を移していた。
わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」

過酷な環境のもので発揮される人間性とは

アンネとフランクルは完全に他人同士であり、それぞれの著作に影響関係などありません。ただ同じ時代にユダヤ人として生まれ、同じ歴史の波に翻弄されたということが共通しています。

しかしながら、二度と繰り返されるはずのない過酷な環境のもとにあって、二人は「美しいもの」に対する鋭い感覚がかえって養われ、結果として「生きている」ことを強く実感するようになったことは確かです。

平和な日常生活を送っていたとしたら、このような観照にたどり着くことはおそらくなかったはず。
ナチスという黒い歴史の渦の中ではじめてこのような人間性が開花するとしたら、まさに人間こそが世界の美しさに感動する心をもち、またガス室すら発明しうるとしたら、人間とはいったい何なのでしょうか・・・。