『アンネの日記』は、フランクフルトに生まれ、ナチスの迫害を逃れてオランダのアムステルダムに移住したフランク一家の娘アンネ・フランクによって1942年から1944年まで書き続けられました。

密告により連行されたアンネらは強制収容所で命を落とし、唯一戦後まで生き残った父オットーがアンネの日記を世の中へ広める役割を果たしました。

もともとアンネは文章を書くことに興味があったらしく、2年も続くことになった長い日記(文庫本で600ページくらいある)ももともとは誕生日プレゼントとして親が買い与えたものです。

普通日記といえば自分が好き勝手に書くものですよね。
誰かが読むということをそもそも想定していないので、「みかんをたべた。とてもおいしかった。山田がサッカーでシュートばかりして外しまくったせいで負けてムカついた」みたいなことを書いても全然OK。

中学生くらいの日記ならそういう文章ばかりなのがむしろ当然なのですが、アンネの日記はこう始まっています。

1942年6月12日
あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話しできそうです。どうか私のために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。
自分のために書いているのではなく、いや事実そうであるにしても、架空の友人「キティー」へ宛てた手紙だという体裁を取っているのです。このため文章は客観的に、相手に伝わるように表現する傾向を帯びることになります。

1942年6月12日というのは、まだフランク一家は潜伏生活を始めていません。
このおよそ1ヶ月後に姉マルゴーに対してSS(ナチス親衛隊)からの呼び出し状が届きます。
父オットーはこれより先に潜伏生活の準備を始めていたものの、これでもう一刻の猶予もなくなったことを悟り、ただちに自宅から北に4km離れたアムステルダム中心部(王宮からも歩いていけるほどの都心です)の職場の別棟へ家族を引き連れて隠れることになりまs.

いまでもその建物は保存されていますが、廊下の突き当りに本棚があり、これが隠し扉でした。
この扉の向こう側でにフランク一家ともうひとつの家族、そして歯医者デュッセルの8人が共同生活を送ることになります。

1942年7月上旬には潜伏生活を始め、その間もアンネは日記を書き続けています。
1942年9月28日には6月12日つまり最初のページに補足をしています。
これまであなたにはずいぶん元気づけられてきました。同様に、いつものわたしの手紙の宛て先になっているキティー、彼女もやはり大きな励ましになってくれます。ただ日記をつけるのより、こういう書きかたのほうがずっとおもしろいと思いますし、おかげでいまでは、つづきを書くのがほとんど待ちきれないくらいです。
ほんと、あなたもいっしょにここへ連れてきて、とってもよかった!
「あなた」が日記を指しているのか、キティーなのかこれだけ見ると不明確です。
広い外の世界=美しいアムステルダムの町並みといえどもSSからの応召を拒んで逃亡したフランク一家にとっては「死」を意味しました。外出が全くできないアンネにとっては、代わりに自分の内面を深く掘り下げるしか行きどころはなかったのでしょう。
そう考えると、「あなた」はキティーであり、「もうひとりの自分に向けて書かれたメッセージ」をも意味していると読み取ることができます。

アンネを知る人からは、「彼女は空想の世界に浸りがちな性格だった」という証言もあります。
ですから、日記に書かれたことが100%の事実だと受け止めることは難しいでしょう。
それでもこの中に表現されているのは、14~15歳の少女の感受性というレンズを通じて観察された彼女なりの「真実」であり、ここに思春期特有の精神の成長が結晶となっているからこその永遠のロングセラーたりえているのだと思います。

それにしても、「キティー」という架空の友人に向けた手紙だという設定を、どうやっていきなり思いついたのでしょうか? これまでの読書経験(『あしながおじさん』とか?)からの影響でしょうか。おそらくそうだとは思いますが、こういう形式を採用したからこそ、この日記には主観と客観が絶妙にバランスすることとなったのでしょう。すごい才能だ・・・。