別にバッハに限った話ではありませんが、楽譜の細かい内容は出版社によって違っていることはよくあります。

これは原典版、校訂版などの違いによるものです。

たとえばバッハの時代にはピアノという楽器がありませんでした。代わりに普及していたのがチェンバロで、響きは現代人が使っているピアノとは異なります。チェンバロは音の強弱をつけたり、音を伸ばすことが不可能でした。このためバッハが書いた楽譜には強弱記号などが書かれていません。

原典版というのは、そういう時代的な制約や作曲家のもともとの考え方を尊重している内容になっています。一番演奏指示が少ないので、自分なりに考えて演奏方法を作り込む必要があると言えるでしょう。

一方で校訂版というのは、編集にあたった専門家が指使いや表現に関する演奏指示を書き込んでいます。
だからこれに従って演奏すると、ある程度は完成されたレベルに最初から到達できるはず・・。
ただしその専門家の音楽観のなかで踊っているだけだとも・・・。

私もバッハの『無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ』の楽譜が2種類ありまして、けっこう細かいところが違っていて「なんでこんなことになるんですか」と先生に相談しました。

出版社による『無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ』の楽譜の細かな違い


IMG_4990

これは『無伴奏』の「ソナタ第3番」より「ラルゴ」の終結部分です。
出版社は日本楽譜出版社。五十君守康氏が編集にあたったものです。

出版社のHPにはこう書かれています。
本書は、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータを初めて弾こうとする学習者のためにできるだけ理解しやすいように書き方を工夫してまとめたものである。本書により、楽譜を性格に弾くだけでなく、楽譜に込められたものを学習者それぞれが感じ取り、バッハを身近に楽しく受け入れてほしい。

初めて演奏する人のために、なるべくわかりやすく配慮したようなのです。
確かに指使いがしっかりと書き込まれているので、あまり悩まなくても大丈夫そうですね。

次は、インターナショナル版。ガラミアンが編集したものです。

image_123927839

指使いはとくになし。

ばかりか、低音部の音符の「ひげ」が日本楽譜出版社のほうとまるで違います。

一番最後の音(低音部)のファは、日本楽譜出版社は16分音符なのに、インターナショナル版はなんと2分音符! まるで違うやんけ!!

普通こんなに違うわけないだろ!? と思い先生に楽譜を見せると・・・。

「最後の3重和音について言えば、ファとラとオクターブ上のファをどれも2部音符の長さで3つ同時に鳴らすことは不可能だ。日本楽譜出版社の場合は、バッハは2部音符と書いていたかもしれないが、実際にはこういうふうに音を出すんですよという観点(ある種の親切心)から書かれていると考えられる」という説明でした。

うーん、たしかにバッハの『無伴奏』はプロ奏者でも楽譜そのままに弾くのではなく、こっそり音を間引いていたり、本当は鳴らしていないのに錯覚で鳴っているように聴こえるように見せかけたりと、細かいテクニックを駆使しているものです。

この2社の違いというのは、例えば明治時代の小説でも新潮文庫版と岩波文庫版で仮名遣いとか送りがななど細かいところが微妙に違っていたり、差別的表現に対してどういう注釈を加えているか・・・といったようなものでしょうか。

それにしても、複数の出版社の楽譜を見比べてみることで意外な発見がありました。
別の曲を練習するときも、「楽譜にはこう書かれているけれど、別の出版社だと違うんじゃないか?」という考えを頭の片隅に入れておく必要がありそうです。