「人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない」とは、芥川龍之介「或阿呆の一生」冒頭に出てくる表現です。

ある本屋の2Fでモーパッサン、ボードレールといった西洋文学の書棚をたどっていると夕闇が迫ってきます。そこで梯子の上に佇んだ「彼」は店員やお客を見下ろしながら「人生は一行のボオドレエルにも若かない」。

これをしゃべったのか、ぼそっと言ったのかははっきりと書いてはいませんが、晩年の芥川龍之介が代表作のひとつである「或阿呆の一生」の始めの場面にこのような言葉を持ってきたということ自体に何らかの作為があると見るべきではないでしょうか。

「人生は一行のボオドレエルにも若かない」

噛み砕いていうと、人の人生なんて、ボードレールが書いた詩の一行にすら及ばない、それくらい価値がないものなんだということになります。

ご存知のように芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」を抱え、「或阿呆の一生」を発表して間もなく自殺を図っています。
この言葉には、かつて彼が発表した「地獄変」にうかがわれるように芸術至上主義を暗示するものであり、とすればこの場面は世俗的な市民生活から離れて芸術のみを追い求めてゆきたいという、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』のような考え方すら伺われるものがあります。

「地獄変」では芸術を追い求めるあまり自死する絵仏師良秀が描かれています。
燃え盛る炎の表現をわがものとすべく美を究める彼は世界で最も芸術を愛し、同時に地上で最も不幸な人であったのかもしれません。

「人生は一行のボオドレエルにも若かない」という言葉は良秀ほどの激しさはないものの、数十年におよぶ一人ひとりの人生の(その人にとっては)かけがえのない時間の積み重ねであっても死んでしまえばだれもその痕跡を振り返るものはおらず、一方で46歳で没したボードレールが残したほんの一行が後世に語り継がれ、文化的影響力を及ぼして文学の歴史が紡がれてゆくことを思えば、それほど的外れなことを言ってはいないように思えます。

『アマデウス』に描かれるモーツァルトとサリエリの関係がそうだったように、凡人がたどり着ける領域と、天才がたどり着ける領域は違います。

「人生は一行のボオドレエルにも若かない」という言葉を思いつき、かつ作品の冒頭に書き記すことができるという閃きそのものが芥川龍之介がなにより天賦の才に満ちあふれていたことの証でしょう。

しかしその才能はどうやら「或阿呆の一生」に登場するモーパッサンなりイプセンなりフローベールなりドストエフスキーなりによって育まれていたことも読み取れ、「或阿呆」という自嘲的な表現のなかに表現者としての強い自負すらむしろ感じ取れる・・・。「或阿呆の一生」はやはり芥川龍之介を考える上で様々な角度から読み解きが可能な作品のようです。