美文調が延々と続いて、現代人には読みにくいことこのうえない夏目漱石の『虞美人草』。

東京帝国大学と第一高等学校の教師がその職を退いて朝日新聞社に就職し、専属の小説家になるというセンセーショナルな出来事に続く、連載小説第一号が『虞美人草』でした。

いまなら大学教授がYoutuberに転職しちゃうくらいのインパクトでしょうか。

夏目漱石は一作ごとに文体がまるで違うのが特徴で、それは当時「小説とはこう書くものだ」という王道パターンが確立されていなかったからこそ、あれこれ試行錯誤を凝らしながら創作活動に励んでいたことがうかがわれます。

で、『虞美人草』というのは前評判から上々で百貨店も勝手にタイアップ商品を販売し始めるほどだったとか。

だからなのか何なのか、読むと目がクラクラしてしまうような美文が続きます・・・。

『虞美人草』は深く考え込まずに読むのが吉?


長押(なげし)作りに重い釘隠しを打って、動かぬ春の床には、常信の雲竜の図を奥深く掛けてある。薄黒く墨を流した絹の色を、過度に取り巻く紋緞子(もんどんす)の藍に、寂びたる時代は、象牙の軸さえも落ち着いている。唐獅子を青磁に鋳る、口ばかりなる香炉を、どっかと据えた尺余の卓は、木理(はだ)に光沢(つや)ある膏(あぶら)を吹いて、茶を紫に、紫を黒に渡る、胡麻濃やかな紫檀である。
これは、とある場面で登場人物が座敷に上がる場面を描いたもの。
現代の小説家ならこんな文章絶対に書きませんよね。だって読者が「ポカーン」になりますから・・・。

文学の特徴は「言葉が美しいこと」。
これはこれで余人をもって代えがたい文章であり、森鴎外や正岡子規のような才能をもってしてもおそらくマネできなかったはずですから貴重なものですが、だからといって読んで面白いかは別のお話・・・。

この話のあらすじは短く言うとプライドの高い女性(藤尾)が紆余曲折のあげくその性格が災いして若くして死んでしまうというもの(乱暴にまとめすぎ?)。

しかしあらすじはおいておくとして、一つ一つの文章を丹念に追いかけていくとそれだけで気分が落ち込んでしまいますから、むしろ自分が読んでいて気持ちいいと思えるセンテンスを繰り返し味わうほうが良いのかもしれません。

たとえばこの文章はどうでしょう。
春は行く。行く春は暮れる。絹のごとき浅黄の幕はふわりふわりと幾枚も空を離れて地の上に被さってくる。払い退ける風も見えぬ往来は、夕暮れのなすがままに静まりかえって、蒼然たる大地の色は刻々に蔓(はびこ)ってくる。西の果てに用もなく薄焼けていた雲はようやく紫に変わった。
3月上旬~4月上旬までの天気のいい日にはなんとなくこういう雰囲気の空模様を楽しむことができます。年間を通じてたった1ヶ月しかない空の様子が、夏目漱石の才能によって美しく描かれています。

文学とは、いや読書とは、こういう「わたしの心の琴線に触れる"何か"」を探す旅路だとするならば、たった一つのセンテンスに出会えただけでもその体験は無意味ではなかったのかもしれませんね・・・。