弁護士・倉持麟太郎さんの著作『リベラルの敵はリベラルにあり』では、民主主義という制度について論じるにあたり、倉持さんのご趣味であるクラシック音楽についてエピソードがところどころに挟み込まれていて、興味深いものがあります。

この本の中盤でマリア・ジョアン・ピリスさん引退の理由がこのように書かれていました。

ピアニストのマリア・ジョアン・ピリスが、2018年に公的な演奏会からの引退を発表したときのインタビューが印象的だった。「ピアノの道具としての性質が向上しすぎてしまった結果、ピアノが鳴りすぎるようになってしまった。もう昔のように自分が歌っているかのようには弾けない」と引退の理由を語ったのだ。ピアノという楽器は、そもそも3000人の大ホールでの演奏を予定して作られたものではない。18世紀、サロンなどの小さい場所で十数人を集めて聴かせる楽器であった。しかし、時代と技術の進歩に従い、より大きな音を出し、演者の打鍵に即座に反応し、パフォーマンスを最大化するメカへと生まれ変わり性能を上げたのだ。
面白い指摘ですね。

じつは私もサントリーホール大ホールのような大型ホールで聴くショパンの「ノクターン」に違和感を感じることがよくありました。

・・・というか、違和感しか感じたことがないのです・・・。


grandpiano

大ホールで聴くショパンの違和感

たとえばショパンやベートーヴェンのピアノ協奏曲を演奏したあとで、ピアニストが一人でアンコールを弾くときに選ばれがちなのがショパンのノクターン。

しかし引用文も示唆するように、ショパンのノクターンは小規模な集まりでの演奏を前提に書かれたもの。
サントリーホールのような場所で聴かれることをそもそも想定していません。

勢い、サントリーホールで演奏されるショパンは後方の座席にも音が届くようにかなり強靭なタッチで演奏されます。

するとどうなるか。

ノクターンが本来持っていたはずの微妙なニュアンスはすべて消し飛んでしまいますね。

ニュアンスが消えてしまったノクターンは、果たしてノクターンと言えるのか・・・。
これが私が感じた違和感の正体です。

ところが周りからは拍手の嵐。自分の感性はおかしいのだろうか? そんなはずは・・・。狐につままれたような気分に何度襲われたことでしょうか。

そもそもショパンが生きていた時代のピアノと、現代のコンサートグランドピアノでは性能もまるで違います。サロンでショパンが弾いていたであろうピアノは、おそらくアップライトピアノか、グランドピアノといってもホテルのバーに置いてあるような2m足らずのものだったはず。

現代のコンサートグランドピアノは大体275cmほどであり、全弦の張力の合計は20トンを超えます。
その張力に耐えうるだけの強さがフレームに求められているわけですから、工業力の粋を尽くしたといっても過言ではないでしょう。

ところがその粋を尽くせば尽くすほど、ピリスの音楽性とはズレが大きくなっていってしまった・・・。これが彼女の引退の背景にあったのではないでしょうか。

思えば、クラシックという一音一音の厳密さやニュアンスの細やかさを大切にするジャンルであっても徐々にそういうものが愛される土壌が失われ、代わって聴覚上のスマートさばかりが追求される風潮が少しずつ高まってきたような気がします。

今、ブルーノ・ワルターのCDが好きでよく聴いているといえばちょっとした天然記念物かもしれません。
「でも」、と私は言いたいのですが・・・。