オーケストラ。指揮者も楽団員もみんな燕尾服を着ていたり、それに近い正装をしていたりと、きちんとした服装ですが、それには理由がありました。

確かに体の動かしやすさだけを考えるならジャージを着ている方がよほどラクですね。

まあステージに部屋着を着て上がるというのは非常識ですから、ジャージではないにせよユニクロとかGUとかでも全然問題ないはず。

とくにクラシックの場合、お客さんは音楽そのものを聴きに来ているので服装というのは出てきた音とは無関係ですから、ジーンズだろうがスーツだろうが音は音。なのにどうして正装を・・・?

これには理由がありました。

orchestra


オーケストラの楽団員がステージで正装している理由

NHK交響楽団のヴァイオリン奏者として長年にわたって活躍された鶴我裕子さんは『バイオリニストに花束を』という本のなかでモーツァルトと架空の対談をしています。

ここで鶴我さんは次のようにモーツァルトに語りかけます。
(モーツァルトの代表的交響曲である)「ジュピター」の最終楽章が終わりに向かって流れを速めて行くとき、「何という素晴らしい曲だ」という思いが、舞台と客席全員の胸に湧き上がります。私たちがステージで正装しているのは、曲に対してなのですよ。
なんと。

お客さんに対してカッコを付けているのではなく、みんなで同じ服装をしたいからでもなく、「曲に対して」正装をしている!!

つまり音楽を演奏する者として、作品へのリスペクトの表れだということです。

これはひいて言えばその曲を生み出したモーツァルトなりバッハなりへのリスペクトでもあり、さらにはその曲をはるか昔から現代まで守り伝えてきた人間社会の歩み=「歴史」へのリスペクトでもあります。

うーん深い!

クラシックを学んで感じる、歴史へのリスペクト

私自身もヴァイオリンを弾く者の端くれとして、バッハやモーツァルトを演奏したり、指導者からレッスンを受けたりすることがあります。

その時決まって言われるのが「これはロマン派じゃなくて古典派だからそれらしく弾きなさい」のように、その時代様式を意識した演奏をすること。

バッハの『無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ』の楽譜を校訂したことのある五十君守康さんもその楽譜のまえがきでこう述べています。
当時(大学卒業後まもなく)、私は先生の弾かれるバッハと、私の弾くバッハでは根本的に何から何まで異なっていることにたいへん大きな衝撃を受け、その後、先生の教えを通じて、バッハの無伴奏曲はその一音一音すべてに背景があり、裏づけを伴っているものだと知り、大きな感銘を受けました。
おそらく五十君さんの師匠であったヴォルフガング・シュタフォンハーゲンさんはドイツの奏法の伝統に根ざしたものであり、これこそが歴史の中で培われてきたものに違いありません。
そのような伝統をどう自分のものにしてゆくか・・・、この苦しみを小澤征爾さんを始めとする日本人音楽家は全員苦闘することになります。五十君さんもきっとその一人だったはず。

そしてクラシックを演奏するときにはバッハはバッハらしく弾かなければやはりそれらしい音が出てきません。なんとかそれらしい音が出せるようになって初めて、自分の音も伝統や歴史によって支えられていることを知り、自分の存在のなんとちっぽけなことかと改めて認識するのでした。

さて五十君さんはバッハの『無伴奏』全6曲をレパートリーにするうえでの心がけとして、師匠から次のように言い残されます。
あなたはこの6曲を自ら一生の課題として採り上げてご覧なさい。私があなたに与えたものと、これから先あなたが自分で創り上げるであろうものとの間に違いがあったとしても、それは当然のことなのです。

師匠から手渡されたものと、自分で創り上げたものとの違い。弟子はやがて経験を積んでいつか自分が師匠という立場になる日が訪れます。そのとき弟子に同じようなことを言い伝えることになり・・・、こうして伝統がアップデートされ、次世代へ伝えられてゆくのです・・・。

「なぜオーケストラの楽団員は正装をしているのか」、この問いには歴史へのリスペクトという大きな理由がありました。
私自身もこの歴史というものを担って次世代へ伝えてゆく一人でありたいと心から願ってやみません。