前回に引き続き、第三話「秒速5センチメートル」について考えてみたいと思います。

東京、種子島を経てもう一度東京に舞い戻ってきた貴樹。

彼は久しぶりに明里に再会するのか・・・、と思いきやそうではありませんでした。

この記事をお読みの方はもうご存知のように二人は「桜花抄」以来ふたたび会うことはなく、文通が次第に途絶えてそれっきりになってしまったのです。

ここには生きることの本質的な「哀しさ」が表現され、日本文学ではたびたび顔を出すテーマである「もののあわれ」が底流しているようです。

tokyo


第三話「秒速5センチメートル」に見る生きていくことの「哀しさ」

貴樹は長野県に生まれ育ち、父親の転勤で東京へ引っ越し、さらに数年後に種子島に転校したあとで大学進学をきっかけに東京に戻ります。
懐かしい東京! と貴樹が感じるかというとそうではなく、「彼の覚えていた頃の東京はもっと穏やかで上品な街であったような気がした」。
ということはもう彼にははっきりとした「故郷」が存在しないわけで、心の拠り所になる土地がない以上、彼の性格造形上、どこか根無し草のような雰囲気を醸し出すことになります。

だからなのでしょうか、明里のことを胸に宿しながらも大学時代、そして就職してからも何人かの女性と付き合うことになりながらもよい関係をキープできなくなっていました。

一番最近付き合った女性が水野で、彼女とは三年付き合ったことが明かされています。
しかしやはり破局・・・。
三年間それなりの想いを賭して、彼らなりに必至に関係を築いてきた。にもかかわらず、結局は彼らの道は途中で別れていた。この先をふたたびひとりきりで歩いていかなければならないと思うと、重い重い疲労のようなものを彼は感じた。
何があったわけでもなかったのだと、彼は思う。決定的な出来事は何もなかった。しかしそれでも、人の気持ちは決して重ならずに流れてしまう。
この文章は「秒速5センチメートル」の中でもひときわ印象的なフレーズです。

普通、小説なりドラマなりには何かしらのドラマがあります。ミステリーなら殺人事件だったり、歴史ものなら本能寺の変だったり、恋愛小説ならイケメンが転校してきたり・・・。

「秒速5センチメートル」では、「何もない」のです。これがポイントです。
「何もない」のに、人の人生行路は重なり合い、そしてやがてすこしずつ違和感が生まれ、やがてまた別々の道を歩むことになるのです・・・。この人と人が出会い、そして哀しさを胸に別れてゆく、そして年月が積み重なるとともにまた別の哀しみが生まれ・・・。ここにははっきりとした「犯人」もいませんし、「事件」も発生していません。別の言い方をすると、人と人が出会って別れてゆくのは人生の必然であり、この哀しみは不可避であり、しかも解決策もありません。

「秒速5センチメートル」のすごいところは、こういう人生の哀感を一切の事件性を持たせずに淡々と描いたことにあります。こうすることで物語に普遍性が生まれます。
シェイクスピアの傑作は登場人物の性格が悲劇を呼び起こすというものであり、事故や事件が悲劇を招いているのではないことに価値があると言われていますが、「秒速5センチメートル」でも事件がないことが逆に「事件が起きなくても人間が生きて年を重ねていくとこういうことになる」ということを指し示しているのです・・・。
ただ生活をしているだけで、悲しみはそこここに積もる。
電灯のスイッチを押し、蛍光灯に照らされた自分の部屋を眺めながら、そう、遠野貴樹は思う。まるで細かな埃が気づかぬうちに厚く堆積するように、いつの間にかこの部屋にはそういう感情が満ちている。
たとえば、今は一つだけになった洗面所の歯ブラシ。たとえば、かつては他の人のために干していた白いシーツ。たとえば、携帯電話の通話履歴。
いつもと同じ最終電車で部屋に戻ってきて、ネクタイを外しスーツをハンガーに掛けながら、彼はそのようなことを思う。
こうやって人は年を取り、すこしずつ孤独に親しんでゆくのです・・・。

物語の終わりに、貴樹と明里はもう一度小田急線の踏切ですれ違います。
貴樹は会社を退職してフリーランスのエンジニアとして生計を立てており、明里は貴樹とは無関係の男性と結婚していました。

昔あれほど大切にすると誓った人を、貴樹は幸せにできず、ばかりか人間関係が途絶えてしまい、明里も「あの男の子との想い出は、もう私自身の大切な一部なのだ」と過去形で回想するものとなりました。

おそらくもう会うことはない二人。思いがけないひとときの交わりも通り過ぎてゆく電車に視界をさえぎられ、貴樹ははっきりと明里を見ることができませんでした。
この電車が過ぎた後で、と彼は思う。彼女は、そこにいるだろうか?
――どちらでもいい。もし彼女があの人だったとして、それだけでもう十分に奇跡だと、彼は思う。

この電車が通り過ぎたら前に進もうと、彼は心を決めた。
「秒速5センチメートル」はこう結ばれています。どうやら貴樹は過去の思い出をあくまでも思い出とし、未来に向けて新しい人間関係を模索していくようです。果たして次はうまくいくのかはわかりませんが、このパラグラフからは――否、『秒速5センチメートル』という小説全体からは――、人と人が出会うことそれ自体が哀しみの始まりであり、往々にして不可抗力的・不可避的に結ばれることはないこと、それでも私達はいつかは前を向いて歩き始めなければならないこと・・・、その目には涙がうっすらと溜まっているかもしれないことが伝わってくるではありませんか。

生きていくとはそういうことであり、この作品には事件性がないがゆえに私やあなたにも似たようなことがきっと降りかかるのです・・・。

おわりに

私は予備知識ゼロで『秒速5センチメートル』を鑑賞しましたが、はっきり言って打ちのめされてしまいました。見たあとは軽いトラウマになり、翌日には本屋で小説版を買い求めました。
こんなすごい作品を今まで知らなかったなんて・・・。ビバ日本映画、日本文学!!