新海誠監督の名作映画『秒速5センチメートル』。この小説版を読書感想文に使おうと思った人もいるはず。

小学校時代から就職して数年間の遠野貴樹の歩みをたどったこの作品は、同級生だった明里との距離感を描写することに焦点が当てられています。

英語のタイトルも"A chain of short stories about their distance"。彼らの距離感についての一連の短い物語だということが示されていますね。

2人の距離感ではなく彼らのtheirとなっているので、種子島で知り合う澄田花苗のことも念頭に置かれているのでしょうか。

映画を読んだり小説を読んだ方ならご存知のように、貴樹と明里は結局結ばれることはありませんでした。青春の一コマをともに過ごし、愛おしく思った2人でした。しかし物理的な距離のせいなのか、お互いの境遇が気持ちを引き離していったのか、その両方なのか・・・。人生ではこういうことは男女関係に限らず普通にありますが、10代、20代でこういう経験をしていると人と人が知り合うことの、言葉にしがたいような哀しさを覚えるものです。
30歳を越えると「まあそんなもんか」とも思えるようになりますが、それは年を取って鈍感になったのか、成熟したのか・・・。
それはさておき、読書感想文で使えそうな表現やポイントを自分なりに考えてみました。


garacia

「桜花抄」の読書感想文で使えそうな表現とは

東京から栃木県に電車で向かう貴樹。
普通なら2~3時間で到着できるはずが雪のせいで夜7時の待ち合わせを大幅に遅れてようやく11時に着きましたという地獄のような展開に。
(東京近辺に住んでいて電車通勤していると、ここまでひどくはなくても似たようなことはわりとしょっちゅうあります・・・。)

私も仕事のため出張で、明里が待つ岩船駅のひとつ向こう、佐野というところへ東京から向かったことがありましたが、本がまる一冊読めてしまうくらい長かったです。

「桜花抄」のポイントを短くいうと、貴樹が好きな女の子のところへ中学生にとっては冒険とも言える距離を乗りこえて向かおうとしていること。
女の子は彼の到着を信じてずっと待っていたということ。

将来結ばれることはなかったわけですが、「桜花抄」の時点ではそれだけ心の中で強い絆で結ばれていたんですね・・・。(相手をここまで強く信じられるのは若いからだ、とも言えます。社会人ならこんなに長く人を待つことはまずありません。)

貴樹が想像する明里はなぜかいつもひとりだったと書かれています。
だからこそ自分が引越し前に会いに行くんだ! という強い情熱が彼を突き動かしていたのでしょうか。
もうすぐ彼女が待つ栃木県の岩船駅に到着するはずの地点で、電車は雪のために止まってしまいます。
貴樹は明里の手紙を思い出します。
手紙から想像する明里は、なぜかいつもひとりだった。そして結局は僕も同じようにひとりだったのだ、と僕は思う。学校には何人もの友人がいたけれど、今このように、フードで顔を隠し誰もいない車輌の座席にひとりで座り込んでいる僕が、本当の僕の姿だったのだ。

(中略)

広いボックス席に座ったまま、僕は体をきつく丸めて歯を食いしばり、ただとにかく泣かないように、悪意の固まりのような時間に必至に耐えているしかなかった。明里がひとりだけで寒い駅の構内で僕を待ち続けていると思うと、彼女の心細さを想像すると、僕は気が狂いそうだった。明里がもう待っていなければいいのに、家に帰っていてくれればいいのにと、僕は強くつよく願った。
でも明里はきっと待っているだろう。
僕にはそれが分かったし、その確信が僕をどうしようもなく悲しく、苦しくさせた。
この表現に込められた明里を思う気持ちの深さはどうでしょう。
人は、ここまで強く誰かに会いたいと思うことができるのでしょうか。

『秒速5センチメートル』はあくまでもフィクションであり、フィクションはフィクションだと受け止めなければなりませんが、フィクションだからこそ表現できる(フィクションの中でしか起こり得ない)思い=人間性というものもあるはずです。

貴樹のように誰かを大切に思うことができるかどうか・・・、これは彼と同じ年代の読者に突きつけられた問いかけでもあります。

ようやくのことで岩舟にたどり着いた貴樹。
駅の待合室には・・・、明里が待っていました。

これがハリウッド映画なら2人は熱くハグしてキス! となるはずですがこれはあくまでも日本の少年少女を描いたもの。
明里が貴樹を思う気持ちは言葉で表現されることはもちろん、これは小説ですから間接的に表現されます。
彼女は貴樹にお茶を差し出します。

明里は保温ポットに入ったお茶と手作りのお弁当を持ってきてくれていた。僕たちはストーブの前の椅子に並んで座り、真ん中にお弁当の包を置いた。僕は明里からもらったお茶を飲んだ。お茶はまだ十分に熱く、とても香ばしい味がした。
「おいしい」と、僕は心の底から言った。
この表現なら、作者が「明里が貴樹をこれくらい好きで・・・」と長々と説明しなくても、明里が貴樹に寄せている思いやりが十分伝わるではありませんか。小説の「描写」というのはまさにこういうことを言うのです。

一晩を納屋で過ごして気持ちを伝えあい、翌朝別れ際に明里は「貴樹くんはこの先も大丈夫だと思う」。貴樹は「僕は彼女を守れるだけの力が欲しい」と強く願いました。

ここで物語が終わっていれば「きれいな話」で終わっていたはずですが、冒頭に述べたとおりこの2人の人生航路はやがて別の方向へ向かってゆきます。

人生とはそういうものです。

「そういうものって、どういうもの?」という問いかけに答えようとするのが文学であり、誰もが納得できる答えを出した人はいまだかつていません。
それでも多くの表現者たちが自分のペンを武器にして立ち向かい、大抵は途中で討ち死にし、その屍を乗りこえて次世代の表現者たちが挑む・・・。そういう行為を繰り返して文学という畑が耕されてきました。

今後引き続き第二話「コスモナウト」も考えてみたいと思います。