毎年、年末になるとその年の振り返りのような記録を残しています。

たまたま3年前に書き留めた自分の「2017年の振り返り」を読み返してみると、渡辺麻友さんの卒業コンサートに参加した時のことが書かれていました。

大半は私がこれまでのブログ記事で書いてきたことの繰り返し(というか、時系列的にはその原型)なのですが恥を忍んで公開してみたいと思います。


2017年末に書き留めた、渡辺麻友さんについての考察

(以下は個人的メモだったので、敬称略となっています)


『運良く当選した卒業コンサートで彼女のアイドルとしてのおそらく最後の姿を目に映すことが叶い、感無量である。渡辺麻友の卒業コンサートは、女性ファンの姿が多く見られ、男だけでなく女からも尊敬を集めていることが伺われた。かつて中島卓偉(注:福岡県出身のシンガーソングライター)は「男は、男から尊敬されてこそ価値がある」といった発言をしていた。渡辺麻友が女性からも慕われているのは、この発言の女性バージョンとも言えよう。

当夜のコンサートはオーケストラ伴奏つきの「初日」から始まり、選曲からステージの構成など、あらゆる点でまゆゆらしさ=王道アイドルとしての世界観が存分に発揮され、普段のAKBのイベントとは明らかに一線を画していた。宝塚にも似た気品があった。

「そうか、世界観を作り込むとはこういうことか! アイドルとは、「アイドルというキラキラした姿」を提供するエンターテイメントなのだ! ディズニーランドが「ディズニーという世界観」を提供し、お客を夢の世界に酔わせるているのと同じことだ!」

自分はステージのまゆゆを見守りながら、そのことに気づいた。
そうなのだ。単に歌が音程通り歌える、ダンスを間違えないという技術的な点をクリアするということは表現段階としては初歩でしかなく、衆人環視のもとで技術の実施を通じて作品そのものや「作品を演奏する(演じる)私」が"常に"表現できてこそプロなのだ。そしてまゆゆは、アイドルという作られた姿を演じきり、なおその上で「いかなる時もアイドルとしての役割を全うするストイックな私」という個性を表現したのである。

この日のまゆゆは、すべての女性が憧れるであろう典型的ヒロインの姿を舞台(それは"世界"や"生"の比喩と言えるだろう)で可憐に咲き誇らせた。コンサート終盤では、私の後方から女性ファンのすすり泣く声が聞こえた。このような一夜限りの美しい記憶は、いつまでも心に留めておきたい。』

当時の記録を振り返ってみて

私の記録は以上になります。
すっかり忘れていましたが、私の席の後ろの方から確かにすすり泣く声が聞こえてきましたことを記録を読み返して思い出すことができました。普通のコンサートではこんなことはめったにないことで、いかに当夜の雰囲気が感動的なものだったか=渡辺麻友さんの11年間の歩みの美しさが認められていたかを端的に示していると思います。

渡辺麻友像というのはファン一人ひとり少しずつ違っているはずで、様々なファンがそれぞれの像を語ることで相場のようなもの=コンセンサスが形成され、やがては芸能史のなかでその姿が定着し、そして一つのアイドルの規範として参照される人物像となってゆくはずです。

渡辺麻友さんは芸能界を去りましたが、彼女が残してくれた様々な姿には文化的価値があり、何らかの形で「その後」の私たちにも影響を与える――、そうなることを願い、否確信し、個人的な記録ではありますがここに公開いたします。