2018年の第87回日本音楽コンクールバイオリン部門1位、翌年の第7回仙台国際コンクールでもバイオリン部門6位となった荒井里桜さんは若手ヴァイオリニストの注目株として知られ、すでに様々なオーケストラと共演を重ねています。

2021年には留学予定で、ジャニーヌ・ヤンセンさんのもとで研鑽を積むこととなっています。
いったいこれからどんなヴァイオリニストとして成長してゆくのか・・・。

その未来を予感させるCDがこの度発売になっていました。
私は年明け早々に銀座の山野楽器で偶然このCDを見つけました。こういうのをセレンディピティというのでしょうね。

さっそく聴いてみると・・・。

rioarai


荒井里桜 IN CONCERT』を聴いてみた

私は以前何度か荒井里桜さんの実演に接したことがあり、ブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』を聴いた時は次のような感想を書いていました。
演奏そのものは、まさに美音の連続でした。美音というと抽象的ですが、往年のヴァイオリニストで例えるならグリュミオーのような系統の音色といえば当たらずといえども遠からずといったところではないでしょうか。

美音の連続でどこまでブラームスに踏み込んでいるのか、陰りが必要なのではないかという観点もあるかと思いますが、汚い音よりはきれいな音であるに越したことはありませんから(もちろん表現上の必要に迫られてあえて汚い音をだすという手段もあるでしょう)、その点は聴いていて非常に心地よいものでした。

また、音がきれいである上に、細かな技巧も精緻に演奏するよう心がけている様子が伺われました。
例えば第一楽章のカデンツァからコーダまでの盛り上がりは最大限の集中力で弾いていたようです。



CDを再生してみて繰り返し耳を傾けて見ると、何がどう美音だったのかよく分かりました。
特に高い音の部分で常に艶のあるきれいな音が紡ぎ出されているのです。

じつはヴァイオリンで高い音を出そうとするとかなり繊細なコントロールが必要になってきます。
高い音を出そうとすればするほどポジションチェンジと呼ばれる作業が厄介になってきて、それはなぜか? というとまず左手をヴァイオリン本体のほうへどんどんずらして行かなければなりません。

しかし本体のほうへずらす=高い音を出そうとすればするほど、弦の反発が強い部分を指で押さえなければならず、なおかつ指と指の感覚もどんどん狭くなっていくため、音程を外すリスクが格段に高まります。反面、高い音を連続して細かく弾き続けることに成功すれば大変きらびやかな音を出すことができます。サラサーテやパガニーニなどのヴィルトゥオーゾ系の曲はそういう場面が連続しますが、音楽的にもビジュアル的にも「映える」からです。

荒井里桜さんの場合はこのような技術的ハードルは完璧にクリア。なおかつ使っている愛器グァダニーニの魅力もあってか、若い生命力をも感じさせるような清冽な美音がこのCDに収められたエルガー、クライスラー、ドビュッシーなどすべてにおいて横溢しています。

であればこのCDの聴きどころはフバイの「カルメンによる華麗な幻想曲」。
確実な技術をもとに重音、跳躍、フラジオレット、トリルにアルペジオ・・・。
一体これはどうやって弾いているんだ? と思うような箇所をクリアしていく様子はどうでしょう。
しかも「こんなにうまい私を見てほしい」というような余計な欲とは無縁。あくまでも楽譜の忠実な再現に徹し、作品のしもべであろうとする真摯な音のたたずまいに好感が持てます。

もちろん注目すべきは単なる技術面にとどまりません。『荒井里桜 IN CONCERT』はドビュッシーやフランクのソナタが中心に配置されていることから、細かなニュアンスの表現が肝となるフランス系の音楽への傾倒が見られ、師となるジャニーヌ・ヤンセンさんの録音と比較してみるとやはり音に若さがみなぎり、今の自分にできることを精一杯ぶつけている様子が伝わってきます。
(他方のヤンセンさんの演奏では強弱のニュアンス、音と音の間に儚げな空気感が込められており、ドビュッシーがあえて「フランスの作曲家」と自らを定義したのはなぜかという問いかけへの答えでもあるようにすら思われます。)

このまま年を重ね、経験を積んだ時このままエネルギーを増してヌヴーのようになるのか・・・、いくつになってもお嬢さんのような気品をたたえたボベスコのようになるのか・・・(個人的にはグリュミオーが好みですが)、荒井里桜さんはさらなる活躍を期待できるヴァイオリニストであることは間違いないでしょう。

さて残念なことにクラシックのCDというのは往々にして生産枚数が限られ、割と簡単に廃盤になりがちです。店頭で見かけたらためらわずに買わないと、後で後悔することになりがちです。
気になる方はお早めに入手することを強くおすすめします。