2020年の大晦日にまた渡辺麻友さんの卒業コンサートのブルーレイディスクを見返して、感動を新たにしました。

2017年10月31日にさいたまスーパーアリーナで行われたこの公演は3時間を超える長丁場にも関わらず、映像を見るたびに決まって深い感動を覚えます。


一曲めは「初日」。ここで渡辺麻友さんはこみ上げる感情から声が震え、思うように歌うことができません。
それでも力を振り絞って歌声を客席に届けようとする姿に、私たちファンは「まゆゆ!」の歓声で応えたのでした。

音楽表現の正確さという点から言えば、「歌えていない」という時点で失格です。
しかし「アイドル」の表現という意味では、これ以上の表現はないのではとすら思えてしまいます。

アイドル=お客さんと共に作るもの

ピアニストなりヴァイオリニストなり声楽家なり、プロの音楽家は大抵英才教育の賜物で子供の頃からの練習の積み重ねで技術が確立されています。お客さんはその音楽を味わうことがコンサートホールに足を運ぶ目的です。

ところがアイドルの場合は10代~20代で、プロの音楽家や役者などとして食べていける技術を持っているわけではありません。卒業コンサート当時の渡辺麻友さんもまたその例外ではなく、あくまでも完成への道のりの半ばでした。

自分の将来の目指す姿に向かって、様々な困難を乗りこえて邁進する道のりを支えようとするのがアイドルファンのあり方ですから、「アイドル」という職業は「アイドル」単独で完結するものではなく、彼(彼女)を応援するファンたちがいて初めて成り立つものです。

渡辺麻友さんはアイドルとして大成功を収めましたが、彼女と同じかそれ以上の資質を持ちながらも予に出ることが叶わなかった人材もいたはずです。
それを「めぐり合わせ」という言葉で片付けてしまうのは簡単ですが、渡辺麻友さんというアイドルの鑑ともいえる人物が平成後期にあって芸能史に足跡を残したのは、オーディションを受けたタイミングなり、彼女の良さに気づいたマネジメント側なり、そのストイックな姿勢に共感したファンなり、様々な要因が絡み合って成り立っていた、精巧なガラス細工だったのかもしれません。

「アイドル」を育む日本の伝統の力とは



日本のアイドル文化は、日本独自のものとされてきました。それは一言で言えば、未完成なものの成長を見守り、応援する文化とも言えます。

その感性は今に始まったものではなく、例えば若い人に最高の環境で野球に向かい合ってほしいという願いで建設された甲子園球場の存在が象徴的なように、昔から若者たちの成長を見守る文化が日本にはありました。

アイドル文化はこうした伝統的な日本人の感性と切り離すことは不可能で、となればアイドルを応援する現代日本人もまた伝統の中に生きていると言えるでしょう。
『万葉集』といい『源氏物語』といい、こうした古典が日本人の情緒や感性を育んできたことは疑いがなく、その感受性の蓄積が私たちの審美眼にもつながっているわけです。

そう考えると、私たちの行動なり美的センスなりを知らぬ間に規定しているのが古典であり、伝統であると言えるわけですから、いかに私たちがこうしたものに支えられているか、いかに偉大であるかがわかろうというものです。

アイドルを「永遠の未完成」とするならば、その若さと共に歩み、未完成なものを完成へ向かわしめようとしたのが私たちファンであり、そのような協働関係を是とする日本人の感受性もまたなんと素晴らしいことでしょうか。

それにしても卒業コンサートの、ブルーに染まった会場といい、清楚な衣装といい、渡辺麻友さんへの思いやりに満ちた「卒業」の名にふさわしい雰囲気といい、すべてがため息をつくばかり。「アイドル」はあくまでもフィクションですが、そのフィクションは作りものと言うにはあまりにも美しく、またたくさんの人の思いが詰め込まれているのでした。

音楽をきき手の時間の質を変える行為だとするなら、このコンサートは渡辺麻友さんのファンにとってまさに終生忘れえぬ「時間」であり、たとえアイドル=未完成な存在であってもその時に響いていた音楽はけっして未完成などではなかったはず・・・。

ああ、あの時この場所にいられて本当に良かった。映像を見るたびに、心からそう思うのでした。