日経新聞「私の履歴書」に2018年10月に掲載された回想録をもとに、そのほか「愛すべき楽曲とともに」、ロシア文学者・亀山郁夫さんとの対談を収録した『ヴァイオリニストの第五楽章』。

自伝である『私のヴァイオリン』とも内容がある程度重複してしまうのは仕方がないことですが、冷戦時代のさなか1961年に奇跡的にソ連に留学を果たし、レニングラード音楽院のワイマン先生からの指導や広大なソ連領の各地から集まってきた学生たちとの交流、そして欧州のコンクールが不調に終わり、3年後に無名のまま帰国。

しかし日本で様々な仕事やレッスンをこなすうちに今度は米国ジュリアード音楽院への留学が叶い、メータやストコフスキーらの指揮者と共演を果たすことに成功。
さらには大ヴァイオリニスト、シゲティの弟子となりスイス・モントルーで彼だけではなくミルシテインの指導をも受けることができ、米国とスイスを主な拠点としながらキャリアを積んでゆく姿は、戦後日本が復興そして高度成長とともに経済的にも文化的にも躍進を続ける歩調とともにあったことが伺いしれます。

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ヴァイオリニストも時代とともにある

『ヴァイオリニストの第五楽章』の行間からにじんでくるのは、バッハやモーツァルトのような流行り廃りのないジャンルの音楽を演奏することを職業に選んだとしてもやはりその人が生きた時代と切り離して考えることができないということでした。

憧れのソ連に留学が叶ったものの、たどり着いたレニングラードでは厳しい生活が待っていました。

寮にはシャワーがない。そもそもお湯が出ない。それで週に一度はライヤ(注:学友)と一緒に風呂屋に出かけた。日本のような湯船はない。熱湯と水の出る蛇口に裸で行列して洗面器にお湯をため、わずかなお湯で体を洗い、また並んでお湯をためる。その繰り返しである。
行列しなければならないのは風呂屋だけではなく、食品を買う時も同じで、チーズを買うにもまずチケットを買うために行列し、そのあとでチケットを商品と交換するためにまた行列し、といった具合で、しかも毎日とにかく寒いのでした。
ところがレニングラード市民は我慢強く、しかも旧交戦国である日本人の前橋汀子さんを差別するようなこともなかったとか。「いじめも全くなかった、みんな温かくて優しかった」と述懐しています。

このレニングラードにはレニングラード・フィルハーモニーという世界有数のオーケストラがあり、当時はエフゲニー・ムラヴィンスキーという優れた指揮者の栄光の時代でもありました。
前橋さんは彼の指揮でチャイコフスキーの『悲愴』を耳にし、またあるときはロシア語の授業でプーシキンが決闘をした場所まで深い雪をかきわけてもがくように歩いたとか。

こうして彼女は当時の物質的には恵まれなかったものの、それをカバーするだけの文化的・精神的な事柄=ロシアの風土や習慣、魂そのものを吸収していったようです。

この世には映像や本では学べない何かがある。私はあの極寒のソ連で悪戦苦闘しながら、たしかに何かを感じた。私の掛け替えのない財産だ。

数十年後、出場するコンクールで決まってソ連の学生の後塵を拝することになる諏訪内晶子さんもまたこの国の音楽教育の秘密を探りたいという憧れから留学を志すも、チャイコフスキー・コンクールに出場した時点でこの国が混乱に陥っていることを悟り、結局アメリカで学ぶことになります。

もし諏訪内晶子さんが前橋汀子さんの時代に生まれ、前橋汀子さんが諏訪内晶子さんの時代に生まれていたら、それぞれはどういうキャリアを歩んだのか・・・、そしてその道程の半ばで何を吸収したのか・・・、そう考えてみるとヴァイオリニストの人生行路もまたその人が生まれた時代と密接に結びついており、たとえば何百年前の音楽を演奏する場合であってもやはり「戦間期」とか「冷戦時代」のような時代の産物としてその人の「音楽」が成り立っているのだと思わざるを得ません。

幸いにして、前橋汀子さんは今なお現役で数多くのコンサートに出演しています。
その理由は、留学先でワイマン先生に「音程を人さし指ではなく小指からとる」という、身体に負担のかからない演奏法を教わったからだそうです。

『ヴァイオリニストの第五楽章』を読み、戦後日本の歩みに思いを巡らすとともに、これからも多くの人を彼女の愛器・グァルネリで魅了しつづけてほしいと心から思いました。