遠藤周作さんの『侍』では作品の終盤ではっとするような素晴らしい台詞が聞かれます。

自らの使命に失敗し、フィリピンで余生を過ごすはずだった宣教師ベラスコは密かに日本へ潜入しようとして九州で囚われの身となります。

彼は同じ獄中にいたバスケス神父から元同僚ディエゴが病死したことを告げられます。
幕府の役人はディエゴの遺体を焼いて海に棄て、何一つ彼が生きた痕跡は残っていないと知り、ベラスコは「私達もやがて灰にされ、海に棄てられるだろう」とつぶやきます。



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死をあえて選ぶ意味とは

ベラスコがあえて決死の覚悟で日本を目指し、案の定捕縛され殺されてしまうのは、彼が自分をイエスの姿に・・・、身の危険を知りつつもエルサレムに入城し、死刑を宣告されたイエスの姿に重ねているからに他ならないでしょう。

私はやがて待っている自分の死をもう敗北とは思わない。日本と戦い、日本に破れ・・・私はまたあのビロウドの椅子に腰掛けていた小肥りの老人をまぶたに甦らせる。あの老人は私たちに勝ったと思ったかもしれぬ。しかし彼には我々の主イエスが大祭司カヤパの政治の世界では破れ、十字架で殺されながら、その死によってすべてを逆転なされた意味が永久にわからなかっただろう。私を消滅させ灰にして海に投げ棄てれば、片付いたと考えただろう。だがそこからすべては始まるのだ。主イエスの十字架の死と共にすべてが開始され動きだしたように。そして私は日本という泥沼のなかにおかれる踏み石の一つになるだろう。やがて私という踏み石の上に立って、別の宣教師が次の踏み石となってくれるだろう。

そして役人から、なぜ無謀にも日本に来たのかと尋問を受けた彼はこう答えます。

「なぜ、狂気にみえることをこの私が承知でやったか。死ぬと覚悟してこの日本に参ったか――いつかお考えくださいまし。その問いをあなたさまやこの日本に残して死んでいくだけでも私にはこの世に生きた意味がございました」
「合点いかぬ」
「私は生きました・・・私はとにかく、生きたのでございます。悔いはございませぬ」

ここでベラスコはすでに個人の命を超えた場所から、自らが生きた意味を客観視し、ながい歴史の中で自分が踏み石となったことで却って後世へのメッセージとして永遠に生き続けることを示唆しているようです。

こうした自己犠牲精神はキリスト教の精髄ともいえるもので、私のようなクリスチャンではない者からすれば到底実践できないことです。これぞ『ヨハネの福音書』の一節「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一にて在らん。死なば多くの実を結ぶべし」という言葉に結びつくものであり、「ある行為に命を賭ける覚悟でなければ、あなたのメッセージは後世へ伝わらない」ということを示唆するものでもあります。

思えば日本にキリスト教が伝わったのもベラスコのような宣教師の存在があったからであり、のちに三浦綾子さんの実話をもとにした小説『塩狩峠』に描かれているように逆走する列車を食い止めようと自らの身を挺して車両の下敷きになることを選んだクリスチャンの青年がいたという事実も、日本に連綿とキリスト教の伝統が絶えることなく残されていたことが背景にあったことは間違いないでしょう。

『侍』は人生と信仰の意味を問いかける純文学の長編ですが、人はなにをもって「生きた」と言えるのか。この問いに真摯に向き合ったとき、「文学」とは難解でもなんでもないということに気づくでしょう。