遠藤周作さんの代表作の一つ『侍』。

『海と毒薬』『沈黙』『死海のほとり』という流れに続いて発表された作品であり、このあと『スキャンダル』そして晩年の大作『深い河』となります。

支倉常長をモデルとする侍が東北地方から太平洋を渡り、メキシコ、スペインそしてローマへと旅を続けるものの、欧州滞在中に幕府がキリスト教を禁止したことがスペインやローマのキリスト教会にも伝わり、失意のうちに日本へ戻るというもの。

遠藤周作さんのイエス像に連なる言葉が、メキシコにとどまる日本人の元修道士の口を借りて述べられており、興味深いものがあります。

samurai


遠藤周作さんが『侍』で明かすイエス像とは

遠藤周作さんが明かすイエス像は、イエスそしてキリスト教の広がりをたどった『イエスの生涯』『キリストの誕生』、この2作をベースとして書かれた小説『死海のほとり』で述べられており、基本的にはその路線を踏襲するものです。

侍は元修道士に問いかけます。「なぜみすぼらしい男を敬うことができるのか?」

彼は「自分も昔そういう疑いがあった」と認めながらもこう答えました。
「あの方がこの現世で誰よりも、みすぼらしゅう生きられたゆえに、信じることができます。あの方が醜く痩せこけたお方だからでございます。あの方はこの世の哀しみをあまりに知ってしまわれた。

(中略)

あの方は、生涯、みじめであられたゆえ、みじめな者の心を承知されておられます。あの方はみすぼらしく死なれたゆえ、みすぼらしく死ぬ者の哀しみも存じておられます。あの方は決して強くもなかった。美しくもなかった」

「あの方が住もうておられるのはな・・・そのような建物(注:立派な大聖堂)ではない。このインディオの者たちのあわれな家のなかかと思います」

(中略)

「あの方は一度も、心傲れるもの、充ち足りた者の家にはいかれなかった。あの方は、醜いもの、みじめな者、みすぼらしい者、あわれな者だけを求めておられた。

(中略)

泣く者はおのれと共に泣く人を探します。嘆く者はおのれの嘆きに耳を傾けてくれる人を探します。世界がいかに変わろうとも、泣く者、嘆く者は、いつもあの方を求めます。あの方はそのためにおられるのでございます」

このイエス像は『キリストの誕生』で指摘した、以下のことと対応関係が認められます。

人間がもし現代人のように、孤独を弄(もてあそ)ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処(どこ)かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。  
だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。

「そのような存在」がイエスであることは言うまでもないでしょう。

こうなると、自分の仕事がうまくいっている人、自信がある人、人間関係に恵まれた人、要するに現状に不満や不安を抱えていない人にはキリスト教も宗教も必要ないということになりそうです。

そういえば上皇様(平成時代の天皇陛下)も自らの意志で会おうとされていたのは社会的に成功した人ではなく、つねに自然災害の被災者でした。また太平洋戦争の激戦地に足を運び、慰霊の旅を続けました。
このように国民との接し方を昭和天皇とは異なったスタイルで続けられた上皇様は、おそらく「人は同伴者を必要とすること」「誰かの哀しみや苦しみを共にすること」が精神的指導者が身につけておくべきふるまいであることをどこかで学ばれたのだろうと思います。

遠藤周作さんの『侍』は終盤においてはっとするような台詞が多く登場します。
歴史の波間に翻弄された男の姿を通して日本人にとってのキリスト教とは? なぜ西洋の修道士は身の危険をおかしてまで日本へ布教に来たのか? 考えさせられることの多い本でした。