私はヴァイオリンを弾いておりまして、年に何度か本番の舞台を踏むことがあります。

しかし本番というのは恐ろしいもので、舞台にはやはり魔物が棲みついているとしかいいようがありません。
プロですらその魔物と戦わずして、喝采を浴びることはできません。

魔物にやられて、意味もなく足が震えたり手が震えたり・・・。

これは私だけのことではなくて、ギターでもピアノでもクラリネットでも、もちろん演技とかスピーチとか、式典の司会とか、舞台という非日常の場に立って何かを披露するという立場の人ならきっと経験しているはずです。

でもこれって悪いことなのでしょうか? ある指揮者は次のような言葉を残しています。


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舞台の本番で緊張するのは、あなたに使命感があるから

大指揮者、シャルル・ミュンシュの言葉です。ミュンシュはボストン交響楽団の指揮者だった時代に小澤征爾さんをアメリカに招き指導を行いました。

後年、小澤征爾さんは師匠の古巣であったボストン交響楽団の音楽監督となります・・・。

さてそのミュンシュの言葉は次のようなものです。指揮者であるあなたは本番を迎えるにあたり、
戦闘の中心である台上にのっかっているのだ、ちょうど飛んで来る矢にさらされた聖セバスチアンのように、いままさに火あぶりになって自らの命をおのが愛する者の代りに与えんとする火刑台上のジャンヌ・ダルクのように。四十年の場数をふんだあとでも、あなたが依然としてこの瞬間に、喉元を襲う気後れ、高潮のように高まる突然の恐怖を感じるなら、コンサートのたびごとに心を昂ぶらせ、びくびくするあの不安を前より少し強く感じるなら、それは、絶えずあなたが向上しており、絶えず自分の使命を前よりも少々よく理解しているからである。

(シャルル・ミュンシュ『指揮者という仕事』より)
たしかに、「一応本番だけど、べつにどうでもいいや」というメンタルだった場合は緊張もへったくれもないはずです。

逆に緊張するというのは、自分がその本番に何らかの価値を認めているからですし、日々の鍛錬のあとで過去の時分よりも少しは向上しているはずなのになお緊張するというのは、それだけ使命感を感じていることの現われだと理解できるでしょう。

そう考えると、舞台の本番で緊張するというのは音楽なり、演劇なりに自分のプライドを賭けて臨んでいるわけであり、けっして全否定されるべきものではないでしょう。


舞台の本番で緊張するとどうなるのか、自分の例

私はエレキギターとヴァイオリンを演奏することができます。
が、どっちも舞台本番となるとやはり緊張します。

控室で真っ白になり、しかも自分がどんなふうに演奏するのか思い出せなくなります!

そのくせ、舞台に立つと体が楽譜を覚えているので「弾ける!」となり、うまく手が動いてくれます・・・。だったら最初から緊張する必要なんてなかったのに・・・。

緊張がほぐれないときは、最初から最後まで右手がプルプルと震えます。
ギターの先生に言わせると、「人の感情は右手に現れる」のだとか。

ヴァイオリン演奏の世界でも「右手は芸術家、左手は労働者」と言われています。

それはともかくとして、ヴァイオリン演奏中に右手がプルプル震えると弓が弦の上でバウンドして音楽の体をなさなくなってしまいます。

ガックリとなって舞台を降りると・・・。なぜか右足をつっているのでした・・・。

どんなに練習を繰り返しても本番で失敗すると非常に後悔し、「俺って一体・・・」という気分になり、しまいには「俺ヴァイオリンやめようかな」ということすら脳裏をよぎってしまいます。

やはり反復練習にまさるものはありませんが、それでも本番では緊張するもの。
失敗しても「それは自分にモチベーションが残っていたから、だから逆に緊張したんだ」というくらいのメンタルで挑むしかないのかもしれません・・・。