先日の渡辺麻友さんについての記事で書きましたように、公共の図書館などで使える朝日新聞記事検索サービス「聞蔵II」では朝日新聞やアエラなどに掲載された記事をさまざまなキーワードをもとに検索することができます。

相変わらず渡辺麻友さんについて調べていた私は、2014年6月に行われたAKB48の総選挙を見ようと、足に怪我を負いながらも味の素スタジアムへ出かけていったある女の子の記事を見つけました。

この当時高校1年生の女の子(しぃたんさん)はどうやら渡辺麻友さんを応援していたらしく、松葉杖で総選挙に参加した娘を助けてくれたAKBファンへの感謝の気持ちを込めて、お母さんが総選挙後に朝日新聞の「声」欄にお礼の気持を投書しました。

するとその投書が反響を呼び、「AKBファンは優しかった イベントで松葉杖の娘への親切」というタイトルで、2014年7月30日朝刊(埼玉県)に次のような記事が掲載されました。
体育祭で競技中に右足首をねんざし、松葉杖をついていた。小学5年からAKBの大ファンで、高熱でもライブに行こうとしたこともあった娘は、今回も「何が何でも行くだろうと思った」と高橋さん(引用者注:投書された方のお名前です)。
 当日は初めての松葉杖に加え、関東は記録的豪雨。
《松葉杖で制服だったら多分私です(笑)
 心細いので声かけてくださると嬉(うれ)しいです
 迷惑かけてしまうかもしれませんが》
 しぃたんさんは総選挙の前日にツイッターでつぶやいた。「松葉杖で行くこと自体迷惑かなと思って、先に伝えたかった」からだ。
 総選挙当日、ツイートを知ってか知らずか、会場で席に座ろうとするしぃたんさんに、隣や後ろの席の「お父さんくらいの年齢」の男性ファン3人が、「水がたまっているから」と脚がつなげられたパイプ椅子を傾けて水を流し、ハンカチで拭いてくれたという。
 帰るときも、「手伝いましょうか?」「大丈夫ですか?」と何人ものファンに声をかけられた。邪魔にならないように通路の端を歩いていたら、コーンや脱ぎ捨てられたカッパを無言でどけて、歩きやすくしてくれたファンもいた。駅ではファンが声を掛け合って道をあけてくれ、電車でも席を譲られたという。
 「申し訳ない気持ちでいっぱいだったけど、本当に優しい人ばかりで、悪い人はいないなと思った」
 自宅の最寄り駅についたのは深夜0時過ぎ。「足大丈夫だった?」と心配顔で尋ねる母に、しぃたんさんは満面の笑みで会場や駅での出来事を報告した。
 高橋さんは、AKBファンについて、「たくさんグッズを買っても捨ててしまう」イメージが強かったという。だが、娘の話を聞いて考えを改めた。「松葉杖は迷惑だと言われても仕方ないのに、自分が守ってあげられない空間でファン同士が娘を守ってくれた。お礼をどう伝えられるか、ずっと考えていました」
(以下略)


帰宅できたのが深夜0時を回っていたということはおそらく味の素スタジアムで規制退場にひっかかり、行列に流されながらたどり着いた京王線飛田給駅でも入場規制にひっかかったのだろうと思います。
雨の降る中露天のスタジアムや駅前の路上で待機するのは想像以上に体力を消耗します。
ましてや松葉杖をついていたのですから・・・。

そんな中、お母さんが偏見を持っていたAKBファンに助けられ、満面の笑みで帰宅したというエピソードには当日の総選挙に足を運んだ人たちの優しさが伝わってくるではありませんか。
と同時に、人はある物事に対して十分な情報をインプットしていないと、「たくさんグッズを買っても捨ててしまう」という固定されたイメージで物事を判断してしまいがちだということも教訓となります。

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固定されたイメージ=偏見で物事を判断することの危うさ

渡辺麻友さんはストイックという切り口で紹介されることが多いですが、この「ストイック」という言葉の語源となったのが世界史の授業でも登場した「ストア派」。古代ギリシアやローマで流行した哲学です。
この哲学に傾倒していたのがローマ五賢帝の一人マルクス・アウレリウス。私はこのブログで彼が残した『自省録』をよく引用しています(一つ覚えというやつですね)。

彼はこう述べています。
健全な目は、なんでも見える物を見るべきであって、『私は緑色のものが見たい』 などというべきではない。これは目を病む者のいうことだ。
アポローニウスからは、独立心を持つことと絶対に僥倖をたのまぬこと(を学んだ)。たとえ一瞬間でも、理性以外の何者にもたよらぬこと。
君に害を与える人間がいだいている意見や、その人間が君にいだかせたいと思っている意見をいだくな。あるがままの姿で物事を見よ。
これらの言葉は、「アイドルファンだからどうせ・・・だろう」という考えの対極にあるものです。
「アイドル」という言葉を「アメリカ人」「中国人」「移民」「黒人」などに置き換えてくださっても構いません。
しかし実際には「アイドルファン」「アメリカ人」「中国人」という人がいるのではなく、ただ個別の人間がいるだけです。

ようするに偏見やデマ、メリット・デメリットのどちらかを強調する報道、自分勝手な思い込み、これはきっとうまくいくだろうという根拠のない自信を否定し、事実を事実として正確に把握しよう・・・。そうマルクス・アウレリウスは自分に言い聞かせているようなのです。

面白いことにマルクス・アウレリウスは『自省録』で同じようなことを何度も繰り返し書いていますが、つまりローマ皇帝といえども自分を乗り越えるということがそれだけ難しかったということのようです。

この記事を書いている2020年4月時点ではご存知のように新型コロナウイルスの感染が日本でも報じられています。
2011年の原発事故では福島県から来たというだけでいわれのない差別があり、残念なことに当時の「福島」がいまの「ウイルス」に置き換わっただけのような暴言が日本各地で見られます。
ほんの9年前の出来事すら早くも風化し、意味のある反省がなされなかったようです。

その一方で朝日新聞に投書した高橋さんは、色眼鏡で見ていたアイドルファンが自分の家族を助けたという事実から認識を改めています。
このことからは、中途半端な知識や思い込みからは偏見しか生まれないが、十分な情報をインプットできればより適切な判断・評価ができるようになるという教訓が得られます。

偏見がたとえば個人的な食わず嫌いの話なら笑い話で済みますが、新型コロナウイルスのような社会全体が関わることになれば話は別で、思い込みや偏見は社会の分断や差別を生みます。

目をそむけたくなる事実、気に入らない事実であっても直視することがいかに大切であるか・・・、都合よく味付けされた「事実」とされるものばかり取り入れてそれ以外の事実に耳をふさぎ、目を閉じることがどんな結末を生むか・・・、逆にほんの少しの想像力と調べようとする努力があれば私たちの判断力はどれほど変わるでしょうか? そもそも差別や偏見は、事実に近づこうともしない自分自身の向学心のなさ、努力不足を第三者に転嫁しているだけではないのでしょうか?

朝日新聞の今回の記事を読んだのが別の時期であればまったく違った感想を持ったはずです。
時期が時期だけに・・・、いやこれは自分の性格のせいなのか何なのか・・・、渡辺麻友さんのことを足がかりになにやら深刻なことを考えてしまいました。



追記:そうは言ってもやはりアイドルファンの中にはイベント会場で厄介行為に走る人や、余ったCDを山の中に黙って捨てるような人もいます。非常に残念でなりません・・・。