2020年はベートーヴェンの生誕250周年にあたり、様々な催しなどが企画されているようです。
彼の初期のピアノソナタで有名なものが『悲愴』(ひそう)。Grande Sonate pathétique(悲愴な感じの大ソナタ)とベートーヴェン本人が楽譜の表紙に書き付けています。

pathétiqueを私の手元にあるプチ・ロワイヤル仏和辞典で調べてみると・・・。
(形)悲壮な;(強く)感動させる;悲痛な
(男)((文))悲壮感;哀感、哀切
という意味が込められています。
ウィーンに住んでいたベートーヴェンは当然ながらドイツ語を話していました。
その彼がわざわざ外国語であるフランス語を選んで曲名にしているということは、(ドイツ人がフランス人に対して持っていたであろう)何かしらの気品というか高級感を込めて演奏すべきであろうという暗黙のメッセージでしょうか。

作品は13番ですからほんとうに初期の作品であることがうかがわれます。
そして調性はベートーヴェンにとっての宿命の調ともいえるハ短調。

彼はのちに『交響曲第5番 運命』を同じハ短調で作曲することになります。
重苦しい雰囲気で知られるこの調性、じつは「残酷な天使のテーゼ」もやはりハ短調です。


pathetique


ふたつの『悲愴』

ベートーヴェンのピアノソナタ『悲愴』はあくまでも古典派の音楽。
ロマン派とは違い、自分の感情を好きに叫ぶ、イマジネーションを優先させるというものではなく、あくまでもソナタ形式などの「形式」を重視し、楽曲の構成を大切に演奏することが求められます。
要するに余計な癖は我慢すべきだということでもあります。

NHKの「らららクラシック」のウェブサイトでは、おそらく第2楽章を指しているのか、このように書かれています。
この曲は5分ほどの曲だが、冒頭の印象的なメロディーが実に5回も登場してくる。しかし、どのメロディーも同じようには聞こえない。それは「内声」が豊かだから。一番高い声部のメロディーと一番低いベースの間にある「内声」と呼ばれる音が、毎回異なっており、そのバリエーションゆえに、同じメロディーがとってもドラマチックに展開されているのだ。最後に演奏を聴かせてくれるピアニストの松田華音さんも「内声」の変化に注目。それぞれ微妙に異なる内声は、ベートーベンの苦しみや悲しみを表し、また、その気持ちを乗り越えた新しい強さや優しさも最後に表れていると推測する。
(https://www.nhk.or.jp/lalala/archive160813.htmlより)

こういう特徴をきちんと把握し、演奏として聴きてに届けられるかどうか(それだけの譜読み能力と手を動かす技術があるかどうか)が名演になるかどうかの分かれ目なのではないでしょうか。


チャイコフスキーの『悲愴』

もう一つの『悲愴』と比べてみましょう。
こちらはチャイコフスキーの『交響曲第6番 悲愴』。
この曲を発表した直後に彼は亡くなりました。人生の最後にこういう曲を残すなんて、晩年の彼は一体何を感じていたのでしょうか?



タイトルは同じ『悲愴』でも正確はガラリと違いますね。

チャイコフスキーの曲を弾いてみると実感するのですが、自分の趣味である程度崩して弾いたり、感情を必要以上に込めたりしてもなんとなく様になるのが特徴。
小品ではとくにそうです。形式とか造形とかをあまり考えなくてもよく、しかもお客さんにも受けるという、食事でいうなら誰にでもわかりやすいハンバーグ定食のような立ち位置でしょうか。
古典派とはまるで違います・・・。

おわりに

以上、『悲愴』の読み方から、自分なりに気になった点を書きとめました。
とくに古典派の曲は構成が大切で、そのためにはやはり基礎技術や、自分の主義主張を抑えて楽譜を忠実に再現するのだというメンタルも求められます。
有名な曲でも、いや有名な曲だからこそ、人前で演奏すると他の人の演奏と比べられてしまいます。
だからこそ練習は万全にしておきたいですね。