NHK交響楽団のヴァイオリン奏者である齋藤真知亜(さいとうまちあ)さん。
フォアシュピーラー(次席奏者)でも務めたことがあり、このたび『クラシック音楽を10倍楽しむ 魔境のオーケストラ入門』という本を刊行されました。

オーケストラ奏者内部から見たオーケストラの姿について、またプロヴァイオリニストとして生きていくとはどういうことなのか興味深いことが盛り込まれていました。

自分なりに関心があったところをメモしていきたいと思います。

NHKSO

オーケストラは仲良し集団ではない

オーケストラの団員も一種のサラリーマンである以上、自分の気持ちと上司(指揮者)の考えが食い違うということは当然にありえます。
そんなとき、

さも「自分もそう思っていました」というふりをしながら、指揮者のオーダーに応えて演奏するのがプロのオケマンの務めです。
(中略)
独自の演奏表現を求められることがないのがオケマンですから、オケマン同士で議論を戦わせることもほとんどありません。
(中略)
なぜなら喋ったところで何もいいことがないからです。
(中略)
「どんなに偉そうなことを言ったところで、演奏会のその場で弾けなければ意味がない。ならば、音楽談義などしている時間にもっと鍛錬しよう」と思うのです。これは音楽を学んできた人なら、学生時代から身に沁みて感じていることでしょう。

ここは2つの点で非常に共感する点がありました。
私は普段は大学入試関連の業務をしていますが、たとえば試験監督ともなればしゃべる言葉は一言一句決まっていて、自分の裁量で「この教室のなかに、受験番号を書き忘れている人がいます。もう一度確かめてください」などといった発言をすることは、たとえ親切心からであっても認められていません。

とくに厳しいのが大学入試センター試験の運営で、実施要領や監督要領など分厚いマニュアルが事前に配布され、書いてあるとおりに必ず実行することが求められています。それができなかったときは、事故報告を行わなくてはなりません。つまり試験運営スタッフはあくまでも国家の歯車でしかないのです。
オケマンに独自の演奏表現が求められていないというくだりには身につまされるものがありました。

また、「どんなに偉そうなことを言ったところで、演奏会のその場で弾けなければ意味がない」というのは私自身もヴァイオリンを弾いているのでよくわかります。
かつて古代ローマ皇帝・マルクス・アウレリウスは「いいかげん善人について論じるのはやめにして、実際に善人になってみたらどうだ」(論より証拠)のような名言を残しています。

イソップ寓話にも「ここがロドスだ、ここで跳べ」という言葉があります。
あるほら吹き男が、「俺は素晴らしい幅跳びの記録を持っている。ロドスに行ったら俺のことを聞いてみてくれ」と吹聴するも、これを聞いた男が「証人はいらない、ここがロドスだと思って跳んでみろ」と言い返した、するとほら吹き男は何も言えずに黙ってしまったというエピソードで、要するに「論より証拠」であり、転じて「物事を環境のせいにするのはやめて今ある状況のもとでベストを尽くせ」という意味です。

やはりサラリーマンもオケマンも仕事ができてこそすべてなのでしょう・・・。




フォアシュピーラーはコンマス(コンサートマスター)の意思を全体に伝える役目だった

コンサートマスターの役割はオーケストラのなかでかなり有名です。
指揮者から最も近い位置に座るヴァイオリン奏者で、副指揮者的な役割を果たすこともあります。
指揮者を〇〇省の大臣とするならコンサートマスターは事務次官のようなものでしょうか。

そのコンサートマスターをフォローするのがフォアシュピーラー。コンサートマスター考えを汲み取り、オーケストラ全体に音で雰囲気を伝達しなくてはなりません。
逆に後方から聴こえてくる音をコンサートマスターに伝えるのもフォアシュピーラーの役割だとか。

城下で謀反が起こりそうな気配を察知して、いち早くお城のお殿様に伝える忍者のような存在です。
ただしこれらの指示は、言葉や明確な動作ではなく、あくまでも音や気配にとって伝えられます。

これは知りませんでした。勉強になりました! しかしプロってすごいですね!!

ヴァイオリンを弾く人が読んでも勉強になる『クラシック音楽を10倍楽しむ 魔境のオーケストラ入門』

齋藤真知亜さんの修行時代も述べられています。

先生は、僕が”死んだ音”を一音でもダスト本気で怒りました。死んだ音というのは、簡単に言えば「出そうとして出した音」ではなく、「ふと出てしまった音」です。そして意図しない音が出るということは、自分から聴きに行っていない、集中していないということです。

たしかにプロの音楽家であるからには自分が出した音に責任を持たなくてはなりません。
文筆業だったら自分が書いた文章に責任が発生するのと同じことなのでしょう。
アマチュアの場合(私もそうですが)、楽譜に書かれていることを音にできた、できなかったとかいう次元で満足してしまいがちです。

でも本当の音楽はそこから始まります。つまりアマチュアは入り口にたどり着くのがやっとということですね(クラシック音楽って、アマチュアの存在をほとんど念頭に置いてないです)。作曲家の伝えたかったことを、楽譜という不完全な伝達手段からどう読み取り、自分なりにどう表現するか・・・。
すべての瞬間において破綻なく表現できて、やっと音楽たりうるのです。

ちなみに齋藤真知亜さんの場合は
聴きたい、聴きたくないではなく、音が鳴ると自然とそこに耳を集中させてしまうようになりました。そのため、音楽を聴くというよりも、どんな演奏をしているのかを確かめて分析してしまうのです。

ゆえに静かな場所で休息しようとしてもわずかな音がすると心が落ち着かなくなってしまうとか。
案の定、齋藤真知亜さんはほかの多くのプロ奏者と同様に絶対音感を幼少期に養ったようです。
絶対音感がなくてもプロに一応はなれるようですが、楽譜の音符と実際の音が頭の中で結びつかないため、対応力の点でやはり引けをとってしまうようです。

もちろんこの記事を書いている私には絶対音感はまったくありません。
晩学の悲哀とはこのことです。

ヴァイオリニストになるために

ヴァイオリニストになるためには本人の才能(絶対音感など)だけではなく、親が子供に対して2~3歳のころからほぼ強制的に練習に向き合わせるという、一般市民の生活からはかけ離れた生活を送らせなくてはならないようです。

かつてソ連ではフィギュアスケートなどで優れた素質をもつ少年少女が見つかると、家族から引き離してモスクワなりレニングラードなりに送られ、日々練習だけやらされるという話を聞いたことがあります。

エフゲニー・プルシェンコがこの最後の世代だと言われており、ウィキペディアにはこう書かれていました。

プルシェンコはこの幼少期の経歴ゆえソビエトシステムの最後の遺産とも言われる。ソビエト連邦など社会主義国では、オリンピックは共産主義の優位性を西側諸国に示す場として、プロパガンダに利用された。ソ連各地から選ばれた素質ある子供たちは、時に幼い頃から家族と離され、必要な全てを国から与えられ、優秀な指導陣のもと英才教育を施された。

今の日本でも、まさかプロパガンダということはありえませんが、ソ連のスポーツ選手を彷彿とさせる生活を送って初めてプロヴァイオリニストになれる(かもしれない)わけですから、この職業に付くのはものすごく厳しいハードルだとわかります。

ところが齋藤真知亜さんはこう戒めます。
プロになるためには、優れた演奏技術はもちろんのこと、自ら道を切り拓いていこうとする自律的な姿勢と、難関が立ちはだかっても、めげることなく突破していく気概も求められます。特に後者は大切です。プロを目指して演奏技術をより深く掘り下げていこうとするとき、どんなに練習を重ねても破れない壁が現れて、打ちひしがれるときが必ずやってくるからです。
プロを目指しても、実際になれるのは一握り。
その厳しい現実がこの部分に示唆されているように思えてなりません。

おわりに

オーケストラのコンサートでは居眠りをしてしまうこともあるのではないでしょうか。
聴くほうは寝ててOKでも、演奏する方はものすごく必死な世界だということが、『クラシック音楽を10倍楽しむ 魔境のオーケストラ入門』を読むとよくわかります。

さて、この本では最後にグローバル化、そしてリスナーである私達のライフスタイルの変化でオーケストラの世界が大きくそして急激に変化していること、だからこそ今のうちに生の演奏を聴いてほしいと述べられています。
たしかに私がオーケストラを聴くようになってから20年ちかく経過しましたが、流行りの演奏スタイルはどことなくデジタル的というか、流線型ふうというか、新型iPhoneのデザインというか・・・。こういうものを彷彿とさせるようなものになってきました。

次の時代にはどういうベートーヴェンやモーツァルトの演奏がスタンダードになっているのかはわかりません。しかし今の演奏スタイルは今しか味わうことができませんから、限られた時間のなかでなるべく多くの生演奏に私も接したいと思いました。