池田理代子先生の不朽の名作である『ベルサイユのばら』では、マリー・アントワネットを慕うスウェーデンの貴族、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンが登場します。
彼は本編では最後のほうに、民衆がマリー・アントワネットを処刑したことを恨み、やがて民衆の気持ちが分からない心冷たい人物になり、最後は撲殺されてしまったことがさらりと触れられています。
2018年3月には『ベルサイユのばら14巻』(エピソード編)が完結し、フェルゼンが群衆に撲殺される場面が描かれています。
この場面からは、フェルゼンが民衆のことをどう思っていたのか(と言っても池田理代子先生から見たフェルゼンの思いなのですが)が伺われ、非常に興味深いものとなっています。
フェルゼンが群衆に撲殺された6月20日とは
この日は言うまでもなくヴァレンヌ逃亡事件(フランス革命時の1791年6月20日から翌朝にかけてフランス国王ルイ16世一家がパリを脱出し、22日に東部国境に近いヴァレンヌで逮捕された事件)と同じ日にあたり、フェルゼンが撲殺された1810年6月20日と同じ日にあたります。
この日はスウェーデン皇太子の葬儀が行われることになっており、『ベルばら』エピソード編では自分が襲われことをうっすらと気づきつつも葬儀会場である教会へ向かう途中で案の定群衆に取り囲まれ、撲殺される・・・、という運びとなりました。
『ベルばら』では歴史の目撃者になったロザリーが窓の外の騒乱を感じ取りながら、こう心の中でつぶやいています。
フェルゼンさ・・・ま・・・この日をきっとあなたは待ち望んでいらしたのですね・・・ご自分の生命をかけて愛した女性を民衆に奪われ・・・それ故に民衆というものを憎みつづけ・・・そしてご自分もまたその民衆の手に落ちようというのですか・・・
フェルゼンの日記(あくまでも『ベルばら』エピソード編の記述です)にはこうありました。
ああ あの忌まわしい六月二〇日・・・わたしは何故最後までご一家にお供しなかったのだろう・・・ご一家がヴァレンヌで捕らえられてしまわれたあの日・・・わたしも何故死んでしまわなかったのだろう片ときも忘れることはない忌まわしいあの日五年が経とうとも・・・十年が経とうとも・・・六月二〇日・・・わたしの運命の日・・・わたしのすべてが終わった日・・・喜びも夢も・・・生きる意味さえも・・・
ここからは、フェルゼンはヴァレンヌ逃亡事件が未遂に終わってしまった時点で精神的には死んでおり、そこから先は心の芯が抜けてしまったことを示唆しています。
フェルゼンの妹ソフィアは、「兄の愛が何を意味し、兄の死が何を意味するのか・・・、すべてのことはずっと後の歴史家たちの手に委ねればいいわ・・・」と涙ながらに語ります。
なぜフェルゼンは民衆を憎んだのか
後世の歴史家や小説家がフランス革命に題材をとり、作品を発表しています。
そのなかで遠藤周作さんの『王妃マリー・アントワネット』は民衆の性質について独自の考察を示しています。
この小説は簡単に言ってしまえば、過酷な歴史の流れの中にあってなおマリー・アントワネットが誇り、愛、優雅さを気丈にも失うまいとする姿勢を描いたもので、とくに後半では、時代の流れというものの力学の前には、一個人がどれほど力を尽くしてもどうにもならないことが示されています。
そのなかで、なぜフェルゼンが民衆を憎むようになったのか、手がかりとも言えるような描写もあります。
(ルイ16世が処刑されると)革命広場の周囲をかこんだ群衆から異様な喚声が嵐のように起こった。その喚声にチュイルリー宮殿の樹々から鳩の群れが舞い上がった。(王は殺された。革命は成就された)喚声は波のように拡がる。儀式は最高潮に達したのだ。(中略)フェルセン(注:この小説ではフェルセンと表記)は群集にまじって、人々に押され、よろめきながら、すべてに耐えていた。(もう、どうすることもできない)胸は諦めでみたされていた。たった一人の人間がいくら力を尽くしてもこの群集には勝てない。いや、群集ではなく王制から革命へという黒い歴史の流れには勝てない、その諦めが彼を意気阻喪させていた。「馬鹿が。馬鹿な大衆が」よろめきながら彼は自分がぶつかった一人の大きな男(注:『ベルばら』ではオスカルの父であるジャルジェ将軍です)が小声でつぶやいたのを耳にした。(中略)フェルセンは単刀直入に、「いやあなたはこう、おっしゃった。愚かな群集と・・・私もそう思います。彼等は煽動家たちにいつも引きずられるのです。そして自分たちを常に弱い者であるゆえに正しいと考えるのです」
たしかに『ベルばら』のエピソード編でも、共和制を樹立しようと考えている革命家たちが民衆を煽動したことが、群集の蜂起の直接の引き金になったことが描かれています。
また、その革命家たちも「(民衆は)自分の信じたい噂の方に常に飛びつく」と指摘しています。(じつはジュリアス・シーザーも同じような名言を残しています。)
クリスチャンでもあった遠藤周作さんは、『イエスの生涯』においても民衆の心理をこう描いています。
だがこの時(注:自分のことを慕って民衆が集まってきた時)、彼(イエス)はもう一つのことも知っておられた。現実における愛の無力さということである。彼はそれら不幸な人間たちを愛されたが、同時にこれらの男女が愛の無力さを知った時、自分を裏切ることも知っておられた。なぜなら現実世界では結局、効果を求めるからである。
(中略)
「奇蹟物語」は私たちにイエスが実際に奇蹟を行ったか、否かという通俗的な疑問よりも、人々がイエスに結局は愛ではなく、徴(しるし)と奇蹟しか求めなかったという悲しい結末を想像させるのである。そしてその望みがかなえられなかった時、人々はどのように烈しく怒ったかをルカ福音書の四章二十八節がふと洩らしているのだ。
(中略)
彼が闘わねばならぬものはこの時、ひょっとすると、自分をとり囲み、訴えと期待の眼差しを向けてくるこれら無数の男女だったのかもしれぬ。イエスは弟子たちのなかでさえも孤独だったのである。
このように、自分がせっかく「愛」の価値を力説しても、民衆が本当に期待していたのは「お金」なり「病気の治療」なりつまり自分にとってのメリットであり、それが実現しないと分かるや、彼らはたちまち「ヒーロー」からサーっと距離をおき始めるのでした・・・。
おわりに
このように「民衆」の描写をいくつか読み解いていくと、なぜフェルゼンが民衆に心を寄せることがなかったのか・・・、仮にマリー・アントワネットの処刑が回避されたとしても、高い判断力を持っている彼なら別のことがきっかけで結局は民衆(の判断の危うさ)を嫌悪するようになったのではないかと思わざるを得ません。
もちろんこのブログ記事を書いている私も「民衆」の一人です。
何かを判断するときは「信じたいことを信じる」のではなく、なるべくバイアスを捨てて煽りに踊らされないように十分注意したいと思いました。

コメント
コメント一覧 (1)
フェルゼンが好きになれなかったまんま終わった漫画だった。