先日、紀尾井ホールで行われたヴァイオリニスト・宮本笑里さんのリサイタルに足を運ぼうと上智大学の前を通りかかると、「ローマ教皇を歓迎します」という内容の旗が掲げられていました。

上智大学のHPにはこう書かれています。
11月23日から26日にかけて、教皇フランシスコが訪日されます。日本最終日の11月26日、教皇が四谷キャンパスに来校し、お言葉を頂くこととなりました。本学への教皇の訪問は、1981年の聖ヨハネ・パウロ2世教皇の来校以来、38年ぶりとなります。
(https://www.sophia.ac.jp/jpn/news/PR/1015papalvisit.htmlより)

また、24日は長崎を訪問し、かつて江戸幕府から迫害を受けていた隠れキリシタンにも敬意を表される予定とのこと。

隠れキリシタンのことは、私も遠藤周作さんの短編「母なるもの」を読んである程度の知識は得ていました。
かくれたちは勿論、役人たちの手前、仏教徒を装っていた。檀那寺をもち、宗門帳にも仏教徒として名を書かれていた。ある時期には、祖先たちと同じように、役人たちの前で踏絵に足をかけなければならない時もあった。踏絵を踏んだ日、彼等は、おのが卑怯さとみじめさとを噛みしめながら部落に戻り、おテンペンシャと呼ぶ緒でつくった縄で体を打った。おテンペンシャは、ポルトガル語のデシピリナを彼等が間違えて使った言葉で、本来「鞭」という意味だそうである。

その隠れキリシタンたちの祈りは、このようなものであったと「母なるもの」に書かれています。
でうすのほんはあ、サンタマリア、われらは、これが、さいごーにて、われら悪人のため、たのみたまえ
この涙の谷にて、うめき、なきて、御身にねがい、かけ奉る。われらがおとりなして、あわれにのおまなこを、むかわせたまえ

すなわち、隠れキリシタンにとって神はきびしい父のような存在だったがゆえに、聖母マリアにとりなしを頼んだらしく、彼等がとくにマリア観音を崇めていたのもそのような理由によるものだったようです。

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なぜローマ教皇は隠れキリシタンにも敬意を払うのか

高齢をおして、なぜローマ教皇は長崎まで足を運ぶのでしょうか。
かつて上皇さまは太平洋戦争の激戦地を訪問され、戦没者の霊を慰めていました。
同様に、ローマ教皇も迫害のなかでも信仰を守ろうとした人々への思いがあるのだろうと考えられます。

と同時に、そのように「小さき者、弱き者」を思いやる視点がキリスト教の根底にあるのだろうと思わざるを得ません。
新約聖書をひもといてみると、イエスがつとめて言葉を交わしていたのはローマ帝国の貴族や成功した商人たちではなく、重い病を負った者や貧しい者たちばかりだったわけですから・・・。

やはり遠藤周作さんは、イエスが神格化され、キリスト教が世界的な宗教となっていった理由の一端について、著作『キリストの誕生』でこう述べています。
人間がもし現代人のように、孤独を弄(もてあそ)ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処(どこ)かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。

だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ。キリスト教者はその歴史のなかで多くの罪を犯したし、キリスト教会も時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ。
ここではキリスト教の特質と教会のあゆみを遠藤周作さんなりに端的に説明されており、『キリストの誕生』の結びの言葉でもあります。

なぜ無力で、実際にはおそらく奇蹟を行うことができず、民衆から見捨てられ、嘲られ、さらには弟子たち全員から(遠藤周作さんは弟子全員が、自分たちを不問に付してもらうためにイエスを売ったと解釈しています)も裏切られ、そして死んでいったイエスが「神の子」として崇拝されることになったのかの本質がここにあり、単純に言ってしまえば「常にあなたの心と共にあることができた」ことが神格化の理由だったようです。

このようなキリスト教の原点を振り返ってみれば、隠れキリシタンのような人々にローマ教皇が敬意を表するのもやはり当然のようです。

隠れキリシタンも幕府を恐れて、命惜しさのあまり教えに背くことがあったはず。
そのとき彼等は自分の弱さを噛みしめ、無力さに震えたことでしょう。
だからこそ彼等の思いに寄り添うべき者が必要であり、それがイエスであり、彼の言葉を世界へ述べ伝えるローマ教皇でなくてはならないのでしょう。

わざわざ長崎にまで足を運ぶという行為に、キリスト者としての矜持が感じられるではありませんか。


おわりに

ここまで書いてこう書くのはなんですが、私はクリスチャンでもなんでもありません。
ただ祖父母がクリスチャンであり、たまたま遠藤周作さんの本が多かったので私もその流れで『沈黙』『深い河』などを読むようになりました。

最近では『イエスの生涯』『キリストの誕生』『死海のほとり』などを読み進めるうちに、キリスト教という宗教の原点にあるのが、イエスの他者に対する献身的な姿勢であったことに気付かされました。

私自身は飛行機がものすごく嫌いで、この先海外へ行くことはほとんどないと思いますが、82歳という高齢にあっても自分の職務を果たそうとするローマ教皇は、日本に飛行機でやってきたというそれだけでも大変なことです。

どうやったらそこまでの使命感を感じられるのか、私も少しは見習いたいと思いました・・・。