このブログは「友だちいない研究所」といいます。公開している記事もぼっち(ひとりぼっち)の人=私から見た世界観のようなことがメインです。

言うまでもなく、私には友だちがいません。


はい、友だちがいません!! ナンテコッタイ/(^o^)\


今は社会人ですが、土日は誰とも会わず、喋りません!

大学時代も友だちがいなくて、学校で人と喋りませんでした。

中学・高校のときもそんな感じで、名前にはあだ名が付きませんでした!
他の人は「しゅうちん」とか「やまちゃん」とかあだ名が付いていましたが、自分だけは「名字+君」でずっと固定でした!

あだ名がない、あだ名が付いてる人がうらやましい・・・。そう思ったこともありました。
でも今は、「むしろそっちのほうが良かったんじゃね?」と感じています。

理由を深堀りしていきます。

bocchi

あだ名がつかなかったワケ

そもそもあだ名とは、その人に親しみを感じて距離が近くなった時に自然発生的にできてしまうもの。
逆に言うと、距離とか壁を感じているとどうしてもあだ名は生まれにくいです。

あなたや私にあだ名が付かないのは、つまりクラスや部活などの人間関係のなかでどことなく「近寄りにくさ」が感じられるからではないでしょうか。

私の場合は、学校が嫌いだったので(そもそも人が嫌いなので)授業が終わるとさっさと帰ってしまうという行動パターンが定着していたので、クラスの人とほとんど喋らず、人間関係が生まれなかったのがあだ名が付かなかった理由だと思っています。

もしあなたにあだ名が付かないなら、たぶんクラスや部活の人とそもそも接触する回数や時間そのものが少ない可能性が高く、そこを改善していけばだんだんあだ名が生まれてくると思われます。

それでもあだ名が付かないほうが良かったと思えるワケ

しかし今にして思えば、あだ名が付かなくて良かったと感じています。
あだ名が付かなかった=人間関係がうまくいかなかった代わりに、

・人間ぎらいがこうしてブログのテーマになっている

・そしてあなたという第三者が読んでくださっている

・このブログの記事を読んで「勇気が湧いた」「救われた」と感じてくれた方がいらっしゃる(かもしれない)

わけですから。

でもこのようなメリットはブログを書いている人だけが味わえるものですよね。
もちろんそれ以外にも誰しもが享受できるメリットがあります。
いろんな事柄に、客観的になれる
ということです。

あだ名が付かない≒ぼっちであるからこそ、あらゆる人間関係に巻き込まれることはなく、様々な出来事を中立の立場から観察することができます。
そもそもぼっち状態が続くと、結局「外部からの観察者」的な考え方が見についてしまうのです。

じつは人間の判断というのは人間関係や思い込みなどでたいてい歪みが発生しているもの。
心理学では「認知バイアス」と言います。
こういう思い込みがないほうが、物事を適切に判断できるようになります。
『ちびまる子ちゃん』の野口さんがクラスの人間関係から一歩引いたところからボソッと鋭いツッコミを入れるようなものでしょうか。

こういう思考パターンが身につけばしめたもの。論理的な考え方が求められる現代文の成績はきっと良くなることでしょう・・・。

友だちは少ないほうがいい! 林修先生もそう言っています。




この動画では、林先生は生徒からの感謝の声を紹介しています。「僕の授業を受けたら現代文の点数が上がって友だちが減りました」。すごくいい話・・・。

おわりに

あだ名がなくて、付いてる人がうらやましい。そう思う必要がない理由を書いてみました。
そもそもあだ名って、「いつメン」の中だけで成立するもので、学校を卒業したりクラスが変わったりするとたちまち消えてしまうもの。
そういう閉ざされた人間関係のなかで付けられたニックネームですから、そもそも気にする必要はなく、あなたはあなたの世界観を突き詰めていけばそれでOKだと思います。

どうかあだ名がないことを気に病まないでください。


追記:このブログの「中学・高校でぼっち」「大学でぼっち」カテゴリには同じようなぼっち体験などが書かれていますので、気になる方はぜひどうぞ・・・。