渡辺麻友さんの楽曲「純情ソーダ水」は、「ラブラドール・レトリバー」のように青春の儚さや淡い感情が込められ、これも彼女のパーソナリティが間接的に表現されている佳曲となっています。

受験生だったころ、教え方の上手な家庭教師のおかげで志望校に合格できた私。
当時の「私」は、家庭教師である「あなた」への感情が何だったのかを自分のなかでうまく解き明かすことができませんでした。

喉がチクチクするソーダ水を飲み込むことができなかったように、この気持は「私」から見て大人の世界のものだったようです。

大人になってようやくソーダ水が飲めるようになったものの、そのときにはもう「あなた」とは人間関係が切れており、建築家になったらしいという噂を人づてに聞くしかありませんでした。
「私」はただ当時のことを思い返しながらそのときに胸の奥に感じたものが何だったのか今更になって理解しつつ、口の中に広がる泡の感触を確かめるのでした。

soda


時間の有限性から生じる「儚さ」「なつかしさ」「淡い切なさ」

アイドルという職業はやがて(そう遠い未来ではなく、しかも時には不意に)訪れるはずの「卒業」という言葉を暗黙のうちに前提にしているだけに、多くのアイドルソングは「時間は有限である」という意識を出発点としつつ、「儚さ」「なつかしさ」「淡い切なさ」といった感情が盛り込まれているものです。

これはアイドルソングに限った話ではなく、多くの芸術家が作品を創造するうえでもやはり重要な感情であったことは明らかであり、つまりは「人間らしさ」の原点でもあるようです。

お茶の水女子大学名誉教授・藤原正彦さんは『管見妄語 知れば知るほど』という著作で、「AIに芸術創造は可能か」というテーマを論じ、次のように述べています。
(人間は惻隠、孤独、懐かしさ、別れの悲しみ、寂寥、憂愁、ものの哀れなど情緒を感じることができるが、)注意すべきはこれら深い情緒がすべて、人間が有限の時間の後に朽ち果てる、という絶対的宿命に起因しているということだ。人間の生が永遠に続くなら、目の前には常に無限の夢と可能性が広がっているから、失意も失恋も別れの悲しみもない。すべての深い情緒は極めて希薄になるか消失するに違いない。幸福感などは長い孤独や哀しみの狭間に現れる束の間の裏返しにすぎないから同時に消失する。

人間の機械に対する決定的優位は死である。死に起因する深い情緒を持たないAIに文学や芸術が創作できるだろうか。
この指摘は的を射たもので、渡辺麻友さんの楽曲に感動し、ひいては彼女のたどった道すじに心を動かされる人が多いのは、単に音程が正確である、ダンスが上手であるといった技術的・表面的な次元にとどまるものではなく、彼女が限られた時間のなかで自らに課された責任を全うしようという「生きる姿勢」そのものが共感を呼ぶものであったからでしょうし、その姿勢はかつて指原莉乃さんが「こんな小さな体でグループを支えて」と評したようにどこかしら自分を削っているような儚さ=いつかは舞台を去ってしまうことを予感させてしまうような「何か」が図らずも備わっていたからだったのかもしれません(このパラグラフは私の後知恵バイアスとも言えますが)。

いま私は『戦う! 書店ガール』など、渡辺麻友さんが出演していたコンテンツの見直しを進めています。数年前はそれを当たり前のこととして受け止めていたTVや雑誌への出演も、今にして思えばそれをリアルタイムで味わうことができるというのはたいへん恵まれたことでした。

DVDやCDに記録された彼女の姿を見るにつけ、自分自身も「純情ソーダ水」の「私」のように感情がチクチクと刺激され、「ほかの未来もあったのかもしれない」という想像をすらしてしまうのでした・・・。