子供が読んでも素晴らしいけれど大人が読むともっと素晴らしさに気づけるミヒャエル・エンデの『はてしない物語』。

読み返しの6日目には第23章「元帝王たちの都」から最終章「生命の水」まで読み通しました。

・・・深い感慨を覚えました。なにしろ20年ぶりの『はてしない物語』ですから。

ひょっとすると、これがもしかしたら人生最後の『はてしない物語』だったかもしれません。

アトレーユに重傷を負わせ、なおも追撃の手をゆるめないバスチアンは家臣たちを置き去りにし、単身「元帝王たちの都」にたどり着きます。ところがここで彼はもし自分が本当に帝王として即位していたらそのあとすぐに廃人同様になっていたことを知り、愕然とします。

アトレーユはそうさせまいと、バスチアンのことを真に思いやって立ちはだかったのでした・・・。

元帝王たちの生きる力を失った姿を目の当たりにしたバスチアンはじきに別の望みを持つようになりました。その望みのなんと人間的なことでしょう!


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バスチアンが最後にたどり着いた、人間らしい望み

ファンタージエンにやってきたときのバスチアンの願いは「強くなりたい」「称賛されたい」という、身も蓋もない表現をすれば「一旗揚げてビッグになりたい」式のもの。

ところがその行き着く果が元帝王たちだとわかると、もうそんなものには一瞥もくれなくなりました。

一人さすらう彼の心のなかにはある望みがきざします。
仲間がほしい、グループに入れてもらいたい、主君とか勝利者とか、何か特別なものとしてではなく、仲間の一人であるというだけのこと、一番だめな、一番重要でないものでもかまわない、とにかくふつうに仲間の一員で、いっしょになんでもできるそういうものとして仲間に入れてもらいたいという望みだった。
この願いは叶えられ、イスカールナリのもとで霧の海を越える船旅を体験します。
しかしイスカールナリのなかには「個人」というものはなく、だれかが死んでも区別がないので悲しむということがありませんでした。

仲間のなかにいるだけでは不十分で、そこには「愛」がなければならない。
バスチアンは、最も偉大なものとか、最も強いものとか、最も賢いものでありたいとは、もはや思わなかった。そういうことは、すべてもう卒業していた。今は、愛されたかった。しかも、善悪、美醜、賢愚、そんなものとは関係なく、自分の欠点のすべてをひっくるめて――というより、むしろ、その欠点のゆえにこそ、あるがままに愛されたかった。
ファンタージエンの果に辿り着こうとするいま、バスチアンは最も人間的な欲求に気づいたのでした。
そして霧の海の向こう岸にあったアイゥオーラおばさまの家では彼女の愛を存分に受け、そして「自分も愛することができるようになりたい」という願いを持つようになります。

この望みを胸に絵の採掘坑で父親の絵を見つけ、生命の水へと導きを得るに至ったのでした。

その絵がシュラムッフェンたちに破壊されるも、その窮地を救い出したのはアトレーユとフッフール。
二人の友情のおかげでバスチアンは人間の世界へ帰還し、父親と新たな生活を踏み出します。

父の目には、これまでにバスチアンが見たことのないもの――涙がありました。バスチアンはファンタージエンから生命の水を持ち帰ることができたのでした・・・。

あくる日、コレアンダーのもとへ『はてしない物語』を紛失してしまったことを伝えにゆくバスチアンは、女王幼ごころの君は新しい名前を与えるたびにまた会うことができると知ります。
バスチアンはその後も何人もの人へファンタージエンへの道をいざなう導き手になるのでした・・・。

全部で600ページ近くある『はてしない物語』の終幕が、実に人間らしい、否これをなくしては人間とは言えないであろう感情である「愛」にたどり着いているのはなんと感動的なことでしょうか。

じつは私は『はてしない物語』を読むすこし前に遠藤周作の『イエスの生涯』、その続編である『キリストの誕生』に目を通していました。
この本のなかで、遠藤周作はイエスは奇蹟を行うことができなかっただろう、その代わりに彼は社会的に見捨てられていた収税人や重病者につねに寄り添おうとしたということを述べています。やがてイエスが神格化され、キリスト教が世界的な宗教となっていった理由の一端について、著作『キリストの誕生』でこう述べています。
人間がもし現代人のように、孤独を弄(もてあそ)ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処(どこ)かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。

だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ。キリスト教者はその歴史のなかで多くの罪を犯したし、キリスト教会も時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ。
ここではキリスト教の特質と教会のあゆみが端的に説明されており、『キリストの誕生』の結びの言葉でもあります。

いかがでしょうか。私たち人間は同伴者を探し求めるという性質があるかぎり、その胸の奥底には必ず「愛」があります。誰かに応えてほしいという望みが・・・。そしてそれが他者に対する人間の条件であるなら、誰かに応えたいという願いも共存しているはずです。

これはまさに『はてしない物語』でバスチアンが長い旅の終わりにたどり着いた境地でもあり、とすれば作者ミヒャエル・エンデは物語を通じて「人間とはなにか」という命題に対して答えを出したといってよいでしょう。

子供の頃に読んだときにはまったく気づきませんでしたが、一度気づいてしまえばそれは自明というほかないほど明らかで、しかも押しとどめがたい感情が胸を揺さぶります・・・。
親戚のおばさん、なんという素晴らしい本を20年前の私に与えてくださったのでしょう。

私はこのあと先も、きっと様々な書物を手にし、感動することでしょう。
けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしましょう。