子供が読んでも素晴らしいけれど大人が読むともっと素晴らしさに気づけるミヒャエル・エンデの『はてしない物語』。

読み返しの5日目には第17章「勇士ヒンレックの竜」から第22章「エルフェンバイン塔の戦い」までたどり着きました。
もう物語も大詰め。

アウリンを手にしたバスチアンは、ファンタージエンで自分が作り出した物語が本当のことになってしまうということに気づきます。

勇士ヒンレックがお姫様と結婚できるように、「お姫様は恐ろしい竜にさらわれたので、あなたが救い出さなければならない。その竜はとても強いが、弱点が一つある」という話をでっち上げると、その瞬間から竜が実在していたということになり、お姫様をさらうばかりではなくファンタージエンの至る所で悪さをし始めます。

最終的にヒンレックがこの竜を退治してしまうのですが、だからといって発生した被害が元通りになるということはありません・・・。
バスチアンは良かれと思ってやったことですが、実際には「よく考えもせずに、予想もつかない危険なものをつくりだしてしまった」わけです。

しかし同じことをバスチアンは繰り返してしまいます。
醜いイモムシ、アッハライに出くわした彼は、「醜い自分が嫌だ」という嘆きを聞き入れてけばけばしい道化師の姿の蛾シュラムッフェンへ変えてしまいます。

ところがこれも「その時は」良いことでも、物語の終盤になってじつは裏目に出ていた行為だったことが明かされてしまいます・・・。

このくだりを呼んでいると、「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉を思い出しました。

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地獄への道は善意で舗装されている

「地獄への道は善意で舗装されている」。これはヨーロッパのことわざです。
このことわざの一般的な解釈は、「悪事または悪意は、善意によって隠されているものだ」、というものである。あるいは「善意でなされた行為であったとしても、その実行により意図せざる結果が招かれる」、というものである。簡単な例でいえば、コイに代表される外来種の導入が、導入当初には予期できなかった繁殖と行動から後に迷惑行為となった、環境を守ろうとして行った行為が、かえって環境を破壊していた、などである。
ウィキペディアにはこのように説明されています。
よい意図をもってなされたことであっても、それが状況を悪化させてしまうことがあります。
派遣労働者が安定して働けるようにと思って制定した法律が、逆に一定の年数に達した時の雇い止めを誘発してしまったというのは分かりやすい例だと言えるでしょう。

「トイレットペーパーが新型コロナウイルスのせいで品薄になる」というデマを否定しようとする、SNSでの善意の投稿が「嘘と分かっているけど、でも万が一に備えて一応買っておこうか」という心理を引き起こし、かえって社会的混乱を招くのも一例ですね。

バスチアンの場合は自分がやったことが自分に跳ね返ってくるのでまだマシです。
現実世界の場合は、「地獄」を招いてしまった人は善意でやっているがゆえに「悪いことをしてしまった」「失敗は二度と繰り返すまい」という意識を持ちづらく、しかもダイレクトに自分に跳ね返ってくるわけでもなく、長い因果関係が見づらいのでなおさら反省できないのです・・・。

偽りの望みに身を委ねる危うさ

やがてバスチアンは魔術師サイーデにそそのかされるようになり、女王幼ごころの君に代わり帝王幼ごころの君としてエルフェンバイン塔で即位します。

でもこれはバスチアンの本心だったのでしょうか。もともとは女王幼ごころの君に会いたいというのがエルフェンバイン塔をめざす理由だったはず。
しかし彼女に会えないことがわかると、サイーデは「あなたが彼女に代わって全権をゆだねられているのだから、バスチアンが帝王になればよい」と入れ知恵をします。

これを阻止しようとしたアトレーユと衝突し、エルフェンバイン塔で血なまぐさい戦いが行われることになったのでした・・・。

「エルフェンバイン塔の戦い」はおよそ20ページ程度ですが、無駄なことは何一つ書いておらず、エンデの筆が冴え渡り、次第にバスチアンが自分のこころを失ってゆくさまを描きます。

それにしても最初から最後まで気が抜けない作品です。
あと1回ほどで、『はてしない物語』の読書メモも終わりそうです。