倉敷の父と電話で話していると、「岡山市ではコロナに感染し、自殺者まで出たらしい」という話を聞きました。

伝聞のお話なので未確認情報にすぎないのですが「さもありなん」と思わざるを得ませんでした。

しかしインフルエンザのような感染症なんて社会のなかで生きるなら誰がなってもおかしくないもの。

他方で自分の暮らす多摩地方では、まわりを見れば皆マスク(全国そうだと思いますが)。
最高気温37度の野外でもなぜかほぼ全員マスク。野外でマスクって意味あるのか?


同志社大学の中谷内教授の調査によると、日本人がマスクをする理由は「みんなそうだから」。
「赤信号みんなで渡れば」と同じですね。

という記事を4月にポストした(今にして思えば先見の明があったと自画自賛)私としては、このコロナをとりまく現象に違和感を感じていました。

いや、違和感しかない!!

この違和感を『同調圧力』という本ではわかりやすく解き明かしてくれています。

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世間と社会の違い

作家・演出家の鴻上尚史さんと九州工業大学名誉教授の佐藤直樹さんの対談では、日本社会の同調圧力がもたらす生きづらさを「世間」の閉鎖性がもたらしたものだと解説しています。

「世間」は会社や学校、自分に関係がある人たちで形成される世界。これがまさに日本。
この世界では人間関係は年功、集団主義、排他性、共通の時間意識などにより意思決定がなされがちです。
だから部活の先輩が神であり、有給のときに「すみません」と謝ったり、会社以外の場所での人間関係が形成しにくかったり、一人だけ先に退社するときに後ろめたさを感じたり・・・。
他人に迷惑をかけないことも大切で、だからこそこの価値観は「コロナに感染した。申し訳ない」という謝罪が生れてくる土壌ともなります。

こういう風土は、自我の強い人(とまでは言わなくても、「生きているうちにこれを達成したい!」という大きな目標があり、日々努力している人)にとっては生きづらいでしょう。
反面、こういう「世間」がセーフティネットの役割を果たしていたことも事実です。

日本人が普段生きているのは「世間」ですが、21世紀の日本では「世間」は半壊していますが、これにすがらざるを得ない。ここに生きづらさがあると『同調圧力』では指摘されています。

「社会」は、知らない人たちで形成される世界。大ざっぱに言って、欧米諸国はこちらです。
この世界では人間関係は個人を対等とみなし、契約に基づく合理的関係であるとされています。
鴻上尚史さんの『「空気」を読んでも従わない』という本では、イギリスの劇団では打ち上げという習慣がなく、気のあった仲間と飲みに行くそうです。これは個人が確立されていればこそ可能なことで、日本で育った人なら「?」となってしまうに違いありません。

戦時中にもあった同調圧力

私がこの本を読んでいて思い出したのは、NHKの国防婦人会の活動を振り返ったウェブサイト。

やがて女性たちは、「ぜいたくは敵だ」と、女性どうしで国策に従う空気を作り出していきます。

85歳のこの女性は、小学生の時に見た異様な光景を覚えています。
梅本多鶴子さん「“ほんまに切るよ”。“長い袖の着物着てきたら、これで切るよ”と。」

国防婦人会の女性が街頭に立ち、派手な着物を着る女性を取り締まっていたのです。

梅本多鶴子さん「村長さんとか偉い人と同じように、国防婦人会の人も威厳があった。反対する人は誰もいなかったと思う。」

その後、戦死者が急増、女性たちは夫や息子の死に直面するようになっていきます。遺族のもとには、婦人会の女性たちが弔問に訪れ、「戦死は名誉」と称賛。遺族は、涙を流すこともできなくなりました。

(https://www9.nhk.or.jp/nw9/digest/2019/08/0819.htmlより)
当初は大阪港から出発する兵隊の見送りなどから始まった善意の運動はやがて全国に広がり、なぜか相互監視の空気が生まれていったのでした。

(はっきりとした法に基づかない)「自粛のお願い」への驚くほどの適応と、「違反」した人へのバッシングと、戦時中のこの光景は私の頭の中では相似形で重なり合うものがあります。歴史は繰り返すというのは、まさにこういうことでしょう。

佐藤直樹さんは語ります。
強制力のない「自粛」や「要請」であっても、それを過剰に忖度し、自主規制する。まわりが「自粛」し「要請」に従っている場合、それに反することをすれば、まちがいなく鴻上さんが言うところの「空気読め」という圧力がかけられます。圧力は人びとの行動を抑制するだけでなく、結果として、差別や異質な者の排除にも発展していく。
こうした国では、世間の価値観に寄り添うことが優先されるわけですから、個人主義も発展しません。ファクトやロジックに基づく「対話」は生れませんし、となると民主主義は未熟なままでしょう。

そう思うと、就職活動をする大学生がみんな同じ格好をしているのも、オーケストラの音色に特色が感じにくいのも、セクシーな日本車がないのも・・・、つまり個性が希薄で誰からも文句を言われないようなものを目指す傾向が日本にあるからだと考えざるをえず、その根本にあるのが「世間」への同調圧力とみなせます。

名演奏家と呼ばれるヴァイオリニストの演奏を日々耳にし、また自分でもそういう演奏を目指したいと考える私としては(下手くそですが)、非凡であること=みんなと違うことを良しとする価値観を持っていますので、こういう風潮には深い嫌悪感を覚えます。

対話のある社会を目指して

『同調圧力』を読みながら、私は政治学者・丸山眞男の次の文章がふいにフラッシュバックしました。
人間観の前提。
一人一人顔がちがっているように、考え方や意見がちがっているのがあたりまえだという前提から出発するか、それとも、意見が一致するのが当然で、また望ましく、ちがっているのはオカしい、あるいはけしからんという想定から出発するか――それが「多数少数制」(ケルゼン)と「異議ナシ」の満場一致制(そこでは多数派は満場一致の理想に到達しない止むない状態にすぎぬ)との基本的前提のちがいであり、人間観のちがいだ。

「自由とは他人とちがった考えをもつ自由だ」(ローザ)というコトバには、脈々とした西欧の伝統が流れている。

(『自己内対話』より)

丸山眞男ふうに言うと、「ちがっているのはオカしい、あるいはけしからん」とするのが日本です。「けしからん」とする価値観の中心にあるのが「世間」とするなら、「社会」を使って世間の風通しを良くしていこうと『同調圧力』では語られています。

私は、「社会」が民主主義を深堀りするための「対話」を広めてゆくためのツールとして活用できるのではと期待しています。

大学時代のこと、「言語文化研究」を履修していると、教授はオーストリアのファシズムについて解説したあとで話を突然日本の平和教育について語りだしたのでした。

戦後の日本は第二次世界大戦がもたらした惨禍に対する痛切な反省のもと、子供たちに平和の尊さを教えてきた。それはそれで正しいことである。戦争は常に憎むべきものである。
だが、教師が生徒に「一方的に平和の尊さを教える」、そこが良くない。

先生が生徒に教え、生徒は先生の言ったことをそのまま受け止めて「平和のありがたみがよく分かった」式の作文を書いて100点をもらう。

このような教育を施していると、誰かの言うことに従うような人材しか育たない。
これでは、もし日本に独裁者のような人物が現れたとして、「それはおかしい」と言える人材が育たない。
概ねこのような内容でした。

多くの人に同調して「みんなの正しさ」を忖度するのではなく、「対話」が交わされる社会であれば、多様性にも敏感であり、独裁者のような人物も生れにくくなるはずです。

戦争であれコロナ禍であれ、非常時には多くの人が自分の意志よりも集団の意志を優先させ、それが集団の中では賢い行動だとされています(それもどうかと思いますが)。
竹槍訓練も、国防婦人会の活動も、戦時中はそれが正しかったので、いかに無意味なことであってもそれを指摘するよりも「みんなが頑張っているのだから」「国家の危機だから」と自分も竹槍訓練に励むほうが(そのときは)正しいということになります。

『はだしのゲン』で、ゲンの父は竹槍訓練に否定的でしたが、もし彼が戦後まで生きていたら、その指摘内容の妥当性にもかかわらず「みんなが頑張っているときに一人だけ逆らった奴」として嫌われ者の一生を過ごしたことでしょう。

しかし、ゲンの父は悪いことを言っていたのでしょうか? コロナ禍において、ゲンの父のような人物がいたとして、緊急事態宣言や自粛要請についてコメントをしたとすると、かなり的を射ていた内容だったのではと思わざるを得ません。

そして、「世間」というものが幅を利かせる日本においては、「同調圧力」に屈せず、自由に議論ができる社会を目指すには、やはりこうした人物を許容する寛容性が必要ではないだろうかと考えます。

おわりに

この記事の後半では『同調圧力』の感想というよりも、本を読んで私なりに考えを広げてみたことになってしまいました・・・。

いずれにせよ180ページほどで2時間あれば読めますが、日本の生きづらさや、自己肯定感の持ちづらさなどについてここまで踏み込まれている本はありませんし、なぜコロナ禍において、死者の数とまったく釣り合わない(日本の場合、ガンでは毎年30万人以上死んでいるが、マスコミは話題にもしない)閉塞感が生れてしまったのかを考える一冊となっています。

例えば大学のレポートや入試小論文の参考文献としても、また日本を考えるうえでも、分かりやすくてためになることは間違いないでしょう。


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