若干26歳で東京大学の助教授に着任した丸山眞男。

『日本政治思想史研究』や『日本の思想』など数々の著作で知られる彼は吉祥寺・東京女子大学のほとりの静かな住宅街に暮らし研究に励む一方で大変なクラシック音楽好きで知られていました。

没後に発見されたノートは『自己内対話』として公刊され、バッハやモーツァルトへの随想がところどころに顔を出し、しかも一つ一つが本質を突いたもので興味深いです。

たとえばモーツァルトについてこんな走り書きが。
モーツァルトの世界は極端にせまく小さいと同時に、そのゆえに全宇宙に等しい。極端にせまく小さいから、その完璧な表現はほとんど不可能にちかい。これこそモーツァルトそのものだというような演奏があるだろうか。モーツァルトの容易に近づきがたいきびしさがそこにある。しかし他面、モーツァルトほど万人の接近をゆるす音楽はない。また、どんなにへたくそな演奏でも、それなりにたのしめる――とくに演奏している本人がたのしめる――点でモーツァルトに比べられる音楽はないだろう。いわんや美事なテクニックで演奏されれば、それで十分なのだ。バッハやベートーヴェンであれほど精神のまずしさを露呈するヘルベルト・フォン・カラヤン氏も、そのモーツァルトでは、えんれいさに於てわれわれを魅惑してやまない。
自分もモーツァルトのヴァイオリン協奏曲を演奏していて、ほんとうにその通りだ! と痛感するときがよくあります・・・。

楽譜はシンプル。それでいて望んでいるような綺麗な音がまるで出てこない。

まぐれ当たりでたまにいい音が出てきて、もう一回再現しようとしたらだめ。
おかしいなと思って練習すると、またまぐれ当たりで再現に失敗。この繰り返し。

ほんとうにまぐれ当たりでピタリと音程、強弱この上なし! と思ってもあくまでも練習中のお話。

舞台の上で、お客さんに聴いてもらわなければなんの意味もないのでした・・・。

このモーツァルトの美しさを説明しようにも言葉で語り尽くすのは難しくて、響きの美しさを追求するのは水晶の純度を高めるような、あるいはミネラルウォーターの透明度(?)を極めようとするような・・・、としか言いようがない、実際に自分でやってみたことがある人には「あ、それね」となんとなくわかっていただけるものの、そうじゃない人には「何言ってんだ意味不明なことを」という話になってしまいます。

「響きの純度」「水晶の純度」というと抽象的ですが、例えば『交響曲第38番 プラハ』第1楽章の終わりの方などでは、響きが濁っていると音がグチャグチャに聴こえてしまいます。

でも指揮者がきちんと各声部をコントロールして、オーケストラの音程もしっかり整っていると、「なんだこれは!」と思うような透明感あふれる音楽が流れ出して、「世の中にこんな綺麗な音があったのか! なんで誰も教えてくれなかったんだ!」という気分になること間違いなし。

ただしこういう経験は数年に一度あるかないか。都市伝説級のまぼろしです。

・・・こうなるとモーツァルトの完璧な演奏って存在するのか、だんだん怪しくなってきました・・・。
プロの演奏でも遭遇率が低いわけですから、ましてや素人の自分は・・・。ちーん・・・。