東日本国際大学教授・中野信子さんの本『人は、なぜ他人を許せないのか?』。

これは誰の心にも潜んでいる「正義中毒」つまり自分の正義に酔うあまり、その正しさから外れたものをバッシングして喜んでしまう心理を説き明かしたもの。

正義を背景に他人をバッシングすることは、脳の快楽中枢を刺激することであり、ドーパミンが放出されてしまうそうです。
一種の麻薬中毒患者のような状態に陥ってしまうようですね。

この本の注目ポイントは、「他人を許せない思考パターン」にあると思いました。

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『人は、なぜ他人を許せないのか?』の注目ポイント。周りに合わせることの「賢さ」

人は一定の状況に置かれた場合は、多くの人が自分の意志よりも集団の意志を優先させ、それが集団の中では賢い行動だとされてしまいます。

竹槍訓練も、国防婦人会の活動も、戦時中はそれが正しかったので、いかに無意味なことであってもそれを指摘するよりも「みんなが頑張っているのだから」「国家の危機だから」と自分も竹槍訓練に励むほうが正しいということになります。

『はだしのゲン』で、ゲンの父は竹槍訓練に否定的でしたが、もし彼が戦後まで生きていたら、その指摘内容の妥当性にもかかわらず「みんなが頑張っているときに一人だけ逆らった奴」として嫌われ者の一生を過ごしたことでしょう。

そうなると、過去の失敗の反省から平和教育をいくら推進し、たとえば独裁者のような人物が国民的人気を得た時に「それは違う」と指摘する勇気を学生たちが培ったとしても、実は意味がないということになってしまいます・・・。

違うことを尊ぶフランス

フランスでは、「こいつ面白いやつだな」と思われると、「本当にそのとおりだ」とは言われず、「ノン! 違うと思う!」という反応が帰ってくるそうです。

議論を深めるために、わざとそうするのです。
意見が違っていることは、お互い人間として意見を持っている以上当然であり、かつ対等であるというものだとされているのです。

中野信子さんはこう書いています。
違っていることは当然で、違いがどうあれ、その理由や背景を議論しながら理解を深めていく社会と、同室なのが当たり前で、違っているものがあれば排除しようとする力の働く社会。そのどちらが良いかは、環境・地理・社会条件により変化します。

(中略)

(フランスでは)どのような考え方を持っていても、どんなスタイル、どんな容姿でいても、「私はこうである」という考えさえ説明できれば平然としていても誰も文句を言いませんし、許容されないということは、そう多くはありません。
この部分を読んだ時、私は政治学者・丸山眞男の次の文章がフラッシュバックしました。

人間観の前提。
一人一人顔がちがっているように、考え方や意見がちがっているのがあたりまえだという前提から出発するか、それとも、意見が一致するのが当然で、また望ましく、ちがっているのはオカしい、あるいはけしからんという想定から出発するか――それが「多数少数制」(ケルゼン)と「異議ナシ」の満場一致制(そこでは多数派は満場一致の理想に到達しない止むない状態にすぎぬ)との基本的前提のちがいであり、人間観のちがいだ。

「自由とは他人とちがった考えをもつ自由だ」(ローザ)というコトバには、脈々とした西欧の伝統が流れている。

(『自己内対話』より)

丸山眞男ふうに言うと、「ちがっているのがあたりまえ」がフランスであり、「ちがっているのはオカしい、あるいはけしからん」とするのが日本です。

さて、民主主義というのは対話を通じて他者への理解を深め、寛容であることが前提であることは言うまでもありません。

同じになりたがることをよしとする日本の民主主義は、この制度が生まれた欧州とは似て非なるものであり、一応法治主義などを採用していてもその実態はかなり違うものになっているはず。
政治や法律を考えるときには、このような「和魂洋才」の社会システムだということを念頭におく必要があります。

正義中毒にはまりがちなインターネットの世界

『人は、なぜ他人を許せないのか?』の注目ポイントはまだあります。
中野信子さんも指摘するように、インターネットではいろんなウェブサイトに「あなたへのおすすめ」を表示させる機能が実装されています。

そうすると自分の性格にマッチした情報にすぐにアクセスできる反面、自分とは異質な情報からはますます遠ざかってしまい、結局は自分の考え方が固定されてしまうという落とし穴があります。

本来多様であるはずのインターネットの世界なのに、それとは逆のことが起こっているわけです。

このようなインターネットの負の側面にスポットライトを当て、さらには特定の「正しさ」に染まらないために、あえて自分とは無関係なことを検索してみたり、調べてみるといった解決策も提案されています。

そう言われてみれば、なにか事件が起こったときのバッシングの激しさって、SNSが普及すればするほど加速している気がしませんか。
これは、ある考え方に同調するユーザー(だけ)が結合しやすい仕組みがインターネットに備わっており、つまりネットの中の世界はそもそも暴走を起こしやすいものだということになります。

中野信子さんは、本の終わりで禅について触れ、「一見結論のない、堂々巡りの問答のなかにこそ、正義中毒の本当の解消法があるように思えてなりません」。と述べておられます。

このように延々と自分そして他者と徹底的に向き合ってはじめて、自分の「正しさ」を相対化することができるようです。



ただ、問題は・・・。









安易に自分の正義に染まってバッシングに走る人には、そういうことを思いつきもしないでしょう・・・。




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