私はブログを2018年2月から始めています。

毎日1記事のペースで更新しており、これまで膨大な文字数が積み重なってきました。

バズって何千人もの方に読んで頂いた記事もあれば、力を込めた割には誰にも読まれなかった記事もあり・・・。

とにかく毎日更新していると、不思議なもので自分の価値観が段々と固まってきて、世の中で起こっているいろんなことがだんだん枝葉末節にすら思えてくるのでした・・・。

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ブログ記事作成ではっきりしてきた、自分の価値観

これだけ記事を更新しても、1日に100人すら訪問していただけないというのはザラです。

というのは自分の関心が世の中の多くの人とはほとんど重なり合っておらず、結局のところ他人に共感してもらえるポイントが少ないからです。
頑張っても頑張っても読まれないなんて、生産性低すぎですね。

書けば決まってベストセラーになる赤川次郎先生のような方がものすごく羨ましいです・・・。

このまま何年ブログを続けたとしても、一体どれほどの人に私の言葉が届くのか・・・。

『坂の上の雲』にも登場する陸軍軍人、秋山好古は次のような言葉を残しています。

「男子は生涯、一事をなせば足る」。

どうやら私は一事すらできないで人生が終わってしまいそうです・・・。

それでも一応、ブログを通じて自分の考えを文章にしていると、段々と価値観らしきものは段々と固まってきました。

私の価値観は、ブログという「毎日の宿題」を通じて言葉として意識されるようになってきた
私は日々プロではないもののヴァイオリンを演奏しておりまして、バッハやモーツァルトの曲を毎日練習しています。

このバッハやモーツァルトというのが曲者で、クラシック音楽というのは完全に伝統芸能の世界なので、守らなければならない演奏上の約束事、いわば「形」というのが存在するのです。

モーツァルトの時代にはこういう風に演奏していた、次のベートーヴェンの時代にはこういう演奏形態に変わっていった・・・。そういうことを前提にしつつ演奏しなくてはなりません。

自分で勝手にスタイルを作ってもいいのですが、それをやって社会に許容されるのは一流の演奏家だけでしょう。
歴史の中で受け継がれてきた伝統をわがものにして、それを自分の表現としてお客さんに提示すること。
音楽というのは演奏家たちのそのような果てしない積み重ねを通じて、いわばらせん階段のように発展してきたといえるでしょう。

人は自分のものと思うほとんど全てがじつは先人からの借り物です。
私はクラシックと呼ばれるジャンルの音楽に親しむうちにバッハやモーツァルトの様式、奏法というものが長い歴史の中で失われることなく現代まで人から人へと伝えられることの重みに気づき、またその伝統を何らかの形で次世代へ手渡す者になりたい・・・、それが私の「生きている」証たれ、という思いを深く持つようになりました。

文章にすれば大したことがないのですが、そもそもブログ記事更新という「毎日の宿題」がなければこうして自分の考えを整理するきっかけすらなかったはずで、言葉にしなければはっきりと自分のなかに問題意識として認識されることもなかったはず・・・。

私のブログというのはまったくPVが伸びませんが、そういう次元を超えて私にとっては計り知れないメリットがありました。

ところが、落とし穴もあった

こうして自分の価値観が固まってきたのはいいものの、落とし穴がありました。

「伝統を何らかの形で次世代へ手渡す者になりたい」って、プロの演奏家でもない私には実力が完全に不足しているのでした・・・。

やりたいことと、できることのものすごいギャップです。

晩学の悲哀という言葉がありますが、ある程度年を取ってから楽器の演奏を極めようとするのはほぼ不可能です。ましてやベートーヴェンなりチャイコフスキーなりの作品は、もともとアマチュアを視野に入れていない(当代一流のピアニストやヴァイオリニストによる演奏を想定して書かれている)のでした・・・。

「男子は生涯、一事をなせば足る」。

私は本当に一事すらできないで人生が終わってしまいそうです・・・。

ちーん・・・。