こんな報せを聞く日が来ようとは・・・。

根拠の乏しい報道にまさかと思いつつ、内心打ち消しながらも2019年秋から心の中でいつも顔を出す疑いが現実のものとなってしまいました。

渡辺麻友さん芸能界引退。

ただただ「引退」の二文字が私の心の中を駆け巡り、2019年9月に豊洲で行われたファンクラブイベント、あれが彼女を目にする最後だったのかと、今私は呆然としています。

渡辺麻友さんについての記事で私は以前マルクス・アウレリウスの『自省録』を引用したことがありました。

アポローニウスからは、独立心を持つことと絶対に僥倖をたのまぬこと(を学んだ)。たとえ一瞬間でも、理性以外の何者にもたよらぬこと。
この言葉には続きがあります。
ひどい苦しみの中にも、子を失ったときにも、長い患いの間にも、常に同じであること。
マルクス・アウレリウスの言葉が、これほど真実の響きをもって私の心に迫ってくるとは・・・。
そう、別れというのはいつも唐突で、悔いを残すものです。ああ、「11月のアンクレット」の歌詞が胸に突き刺さります。

「あのときこうしていれば」。その過ちを繰り返さないために、私たちは日々を懸命に生きなければなりません。
それは取りも直さず、やはりマルクス・アウレリウスが言うところの
あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。
に帰するものです。
不可避のものは言うまでもなく死であり、人生は有限であるからこそ「許されている間に、善き人」たらんとする努力を惜しんではならないのです。

watanabemayu


渡辺麻友さんの幸せを祈りたい

大雨の中の総選挙、ブルーのペンライトに染まったさいたまスーパーアリーナ、モンマルトルへ向かうアメリのように胸を高鳴らせて天王洲アイルへ向かった2年前・・・、渡辺麻友さんをめぐる私の思い出はどれも忘れたくないものばかり。

この記事を読んでくださっている方もおそらく同じ思いだと思いますが、私たちの人生に彩りを与えてくださった渡辺麻友さんにはどれほどの感謝を伝えればいいのでしょう・・・。
いや、その思いを伝えるすべは事実上失われてしまったのですが・・・。

今後彼女は山口百恵さんのように芸能活動から完全に退くのか、それともキャンディーズのメンバーのように後日復帰するのか・・・。それはわかりません・・・。

これは自分の気持ちを奮い立たせるために書いていることですが、いつか彼女が再び戻ってくるのでは、私の心の中にはそういう思いが多少はあります。

というのは私の経験上、あるエピソードをどうしても連想せずにはいられないからです。
以前も何度か書きましたとおり、私はヴァイオリンを弾いていますが、TVにもたまに登場するヴァイオリニストの千住真理子さんが複数の自著のなかで繰り返しご自身の体験を書いておられます。

12歳でプロデビューし、必死にコンサートをこなすうちに、いつしか虚しさと戦うようになったこと。
「天才」としての完璧さを演じなければならないプレッシャー、楽壇に渦巻く様々な嫉妬。
少女から大人へ変わってゆく多感な時期にこころの濁流を泳ぎ切ることができなかった千住さんは20歳で引退を決意。音楽を耳にするだけで吐き気やめまいに襲われたと語ります。

その千住さんに、ある時ボランティアの人からの連絡が届きます。「あなたのファンだったというがん患者が、最後にあなたの音楽を聴きたいと言っている」。
しかし何ヶ月も楽器に触れていない彼女の演奏はほころびだらけ。納得のゆかない演奏を披露した後悔を胸にホスピスを後にしました。この患者さんはその後しばらくして亡くなったという報せをまもなく受けることになったのでした。

この経験が千住さんの心に深い足跡を残し、ただの音符を技術的に羅列するだけだった彼女の演奏に命が吹き込まれることになります。「つらい時期を経てロボットから人間に変わってゆく感覚だった」と千住さんは回想しています。こうして少女から大人への深い河を泳ぎきった千住さんは数年後、改めて演奏家として舞い戻ってくることになるのでした・・・。

渡辺麻友さんはどうでしょうか。
健康上の問題が理由であるにせよ、舞台にかける彼女の情熱、仕事へのストイックさは彼女の人となりの根幹の部分にあたるものであり、すべてが失われたとはとても思えません。

私は何も彼女に芸能界復帰を強要したいわけではなく、また彼女が自分なりに輝ける場を求めて別の世界へ踏み出してゆき、そこで幸せになれるなら・・・、それも彼女を応援し続けてきたファンの願いが結実したと言えるでしょう。

なにしろ人生は長いのです。繰り返し私が一連の記事で申し上げましたとおり、人が成熟してゆくプロセスは時間がかかる複雑なもの。たとえもう会えないにしても渡辺麻友さんの将来が明るいことを心からお祈りしています。

私たちファンに残された役割とは

突然飛び込んできたニュースに「まさか」の思いで呆然となった方ばかりだと思います。
思いがふいに断ち切られることほど悔しいものはありません。これまでの積み重ねが一瞬で否定され、「今まで何だったのだろう」という思いばかりがつのる方もいらっしゃるかと思います。

私は手を震わせながら渡辺麻友さんのツイッターアカウントへこう投稿しました。

(あなたのファンで良かったです、とは卒業前の握手会でも伝えました。)

そして自分なりに渡辺麻友さんを応援してきたことの意味を考え、このようにまとめました。

私たちは様々なイベントや番組、舞台を通じて勇気をもらいました。渡辺麻友さんの幸せを願いつつ、もし「継承者」が現れたときはその背中を押す役目がまだ残っていると思います。

皆様も人生経験上お気づきだと思いますが、人はどんな時も絶えず心の底で「共に歩むべき誰か」を探しているものです。作家の遠藤周作さんはそのような観点から、『キリストの誕生』という本のなかでこう書いています(いきなり宗教の話になってしまい怪しいことこのうえありませんが、私は真剣な話をしているつもりなのでどうか読んでください。私はここで布教活動をしたいわけではなく、いわんやクリスチャンでもありません)。
人間がもし現代人のように、孤独を弄(もてあそ)ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処(どこ)かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。

だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。
私たちがアイドル(女優)を支えようと思い、またイベントに足を運び、感想をSNSに投稿したりするのも、その根底には「人との関わりこそが、人間の証明である」という原則があるのだろうと思います。

いま一度さいたまスーパーアリーナの卒業コンサートを思い起こすと、客席にはブルーのペンライトを一心に振った私たちの姿があるはずです。都心の高層ビルの窓明かり一つ一つに人の営みがあるのと同じように、ペンライトの光それぞれに私たちの思いが詰まっています。
私たちもペンライトを振るだけで、舞台に立つ人の背中を押すことができる・・・、第1曲目の「初日」を聴きながら私はそう実感しました。

このブログは「友だちいない研究所」と言いますが、やはり文字通りの意味で一人ぼっちの人というのはいません。渡辺麻友さんをめぐる記事を投稿し、図らずも温かいお声を頂いたときにそのことを実感しました。

私は渡辺麻友さんを支える一ファンとして、これからの彼女の幸せを祈るとともに、彼女を応援する活動を通じて得た実感をブログで文章として公表したり、彼女の美質を受け継ぐ人が現れたときにその後押しをしたり・・・、ひそかに彼女が戻ってくる日を待ち焦がれたり・・・。このようなことをこれから実践していくつもりです。

おわりに

人は自分のものと思うほとんど全てがじつは先人からの借り物です。
私はクラシックと呼ばれるジャンルの音楽に親しむうちにバッハやモーツァルトの様式、奏法というものが長い歴史の中で失われることなく現代まで人から人へと伝えられることの重みに気づき、またその伝統を何らかの形で次世代へ手渡す者になりたい・・・、それが私の「生きている」証たれ、という思いを深く持つようになりました。

思うに、渡辺麻友さん自身も彼女単独で渡辺麻友たりえたのではなく、アイドル文化の積み重ねがあってはじめて「渡辺麻友」という女優が誕生したのでしょう。
渡辺麻友さんは芸能界を去ることになりましたが、彼女が残してくれたものは次世代のアイドルや女優に受け継がれるべきです。たとえ「思い出はいつか どこかで片付けるつもり」でも、守り伝えるべき価値はあります。

これまで渡辺麻友さんを支えてきたファンの方の繋がりもこれで終わるのではなく、一人ひとりが「語り手」として文化を担い、次の時代へ思いを託してくださることを――私もその一人たらんことを――願ってやみません。


渡辺麻友さん、ありがとう!! 私はあなたのファンで良かった!!