新型コロナウイルスについて「中傷につながる?「感染は自業自得」と思う割合、欧米に比べ日本突出」という興味深いニュースを発見。

新型コロナウイルスの流行を巡り、「感染は本人のせい」と捉える傾向が、欧米に比べ日本は突出して高いことが大阪大などの調査で分かった。

(中略)

慶応大、大阪大、広島修道大などの心理学者が3月下旬に日本、米国、英国、イタリアでウェブ調査を実施した。(1)感染した人がいたとしたら本人のせいだと思う(2)感染する人は自業自得だと思う-という二つの質問に、まったく思わない▽あまり思わない▽どちらかといえば思わない▽どちらかといえば思う▽やや思う▽非常に思う-の選択肢を設定。各国で約400人から回答を得た。  

質問(1)で、「どちらかといえば-」から「非常に-」までを含めた「思う」は米で計4・8%、英で計3・5%だったが、日本は計15・3%で本人に原因を求める傾向が強く、伊も同様だった。

質問(2)では、「思う」は他国が計1~2%台だったが、日本は計11・5%と際立って高かった。  また、質問(2)に対して、米は72・5%、英は78・6%が「まったく思わない」と強く否定したが、日本では29・3%にとどまった。

(神戸新聞NEXT 2020年5月17日配信記事より)

これについて人事コンサルタント・城繁幸さんはこのようにツイートしています。


この傍証となるような記述を、戦後最大の思想史家・丸山眞男のノート(没後『自己内対話』として刊行)に見つけてしまいました。

murashakai


新型コロナウイルスがあぶり出す日本のムラ社会

丸山眞男はこう書いています。
人間観の前提。
一人一人顔がちがっているように、考え方や意見がちがっているのがあたりまえだという前提から出発するか、それとも、意見が一致するのが当然で、また望ましく、ちがっているのはオカしい、あるいはけしからんという想定から出発するか――それが「多数少数制」(ケルゼン)と「異議ナシ」の満場一致制(そこでは多数派は満場一致の理想に到達しない止むない状態にすぎぬ)との基本的前提のちがいであり、人間観のちがいだ。

「自由とは他人とちがった考えをもつ自由だ」(ローザ)というコトバには、脈々とした西欧の伝統が流れている。

(『自己内対話』より)
この文章と城繁幸さんの文章から察するに、感染に寛容ではないということは「みんなが同じなのが当然で、ちがっているのはおかしい」とするのとほぼ同じことを言っているように思えます。

狭いムラの中ではみんなが同じなのは当然ですから、寛容性もそりゃ乏しくなりますよね・・・。

そういう環境なら、「ちがってるやつは排除されても当然だ」「みんなとちがうことをしたのだから、ひどい目にあっても文句は言うな」という考えになっても不思議ではありません。

面白いことに、こういうムラ社会体質というのは新型コロナウイルスに感染したひとをバッシングする話にかぎらず、学校でも会社でも、地域社会でも、いろんなところで顔を出してきます。

バッハやベートーヴェンなどのドイツ音楽を好んでいた丸山眞男は「執拗低音」(低音部において同一音型を執拗に反復する技法のこと)という音楽用語を使いながら、中国や欧米から入ってきた仏教やキリスト教などの宗教・哲学といった様々な思想(=メロディ)が日本古来の土着の世界観(=ベース音)を基礎として様々に変奏されてきた、その「日本化」のパターンは驚くほど似通っているという理論を構築しました。

とすると外来のリスクである新型コロナウイルスにかかってしまい、バッシングされてしまうというのも案外日本人らしい行動パターンの変奏のひとつだと言えるのかもしれませんね・・・。

厄介なことに、「バッシングされてしまう」というのはあくまでも目に見える氷山の一角であり、丸山眞男ふうに言うとそのベースには日本の土着の思考があるということです。

つまり「新型コロナウイルスは日本人の行動を変えるだろう」「変わらなくては」といったような主張が新聞やTVで一時的になされたとしても、日本の土着の部分は不変であり、またいつか似たような出来事=別の変奏が必ず現れるということであり、よくも悪くも日本的なもの(例えば、ムラ社会体質)は私達が生きている間に変わることは絶対にないということなのです・・・。

うーん・・・。