太平洋戦争中に、英語を学んでいると非国民扱いされたのは有名なお話ですね。
おそらく当時の人としては、英語を学べば学ぶほど英米の文化に染まり、やがては日本が彼らの圧力に屈してしまう・・・、そうならないためにも、英語を排斥しなければ・・・。

そういう(当時の)「正しさ」が背景にあったのでしょうか。

昭和15年には文部省の指導により、フェリス女学院は「横浜山手女学院」へ、東洋英和女学院は「東洋"永"和女学院」へ「自主的」に名称を変更していました。なんだか新型コロナウイルスの影響で営業の自粛を要請しているような風景ではありませんか。

興味深いことに、学校教育の現場では英語のカリキュラムそのものは著しく減ったわけではなく、そもそも当時のマスコミの過剰な報道が社会全体に英語への反感を生んだようなのです。

私は学生時代に英語英文学科というところに所属していたので、戦時中に肩身の狭い思いをした遠い昔の先輩たちのことを考えることがあります。

ところが最近では戦時中の「英語を学んでいると非国民扱いする」かのような動きを連想させる出来事がありました(いえ、現在進行形なので"あります")。「自粛警察」です。

jishukukeisatsu


なぜ「自粛警察」をやってしまうのか、その心理とは

自粛警察とは営業をしている飲食店を見つけて「タヒね」「つぶれろ」などのように吊るし上げる行為のこと。正しいことをしているはずなのに、なぜか匿名、顔も出さないという不思議。
田中芳樹先生の小説『銀河英雄伝説』をお読みになった方なら、「正しいことをしているなら、なぜ顔を隠すんだ!」という憂国騎士団登場の場面を思い出す方もいるでしょうか。

しかしなぜこういう心理に・・・。
私なりに考えると、中野信子さんの『シャーデンフロイデ』という本に書かれている一節がヒントになるのでは・・・。

シャーデンフロイデというのはドイツ語で「影の喜び」とでも訳しましょうか、他人の不幸を喜んでしまう心理のことで、「愛」と表裏一体の関係でもあるそうです。
人間にとって「愛」とは人間関係や社会を築くうえでごく自然な感情ですが、その裏返しとして、「愛」や「絆」「共同体」などが危険にさらされると、その平和を壊そうとする敵を見つけ出して排除しようとする心理になってしまうこともあります。

「あいつだけトクをしている」ということが明らかになると、なんとかして引きずり下ろして不幸な目にあわせてやりたい。「目立つ」人物を晒しものにして、フルボッコにしてやりたい。そうすれば私たちの静かな生活がキープできるのだ・・・。「正しい」私たちの生活を守るために、「抜け駆け」をする人物には制裁を加えるべきだ・・・。

『シャーデンフロイデ』で、中野信子さんは「ヒトの脳は誰かを裁きたくなるようにできている」として、このように述べています。
集団において「不謹慎なヒト」を攻撃するのは、その必要が高いためです。「不謹慎な誰か」を排除しなければ、集団全体が「不謹慎」つまり「ルールを逸脱した状態」に変容し、ひいては集団そのものが崩壊してしまう恐れが出てくる。

その前に、崩壊の引き金になりかねない「不謹慎なヒト」をつぶしておく必要があるのです。
(中略)
結論を言えば、誰かを叩く行為というのは、本質的にはその集団を守ろうとする行動なのです。

こういう感情は、たしかに平和な状態で明らかな裏切り行為(たとえば替え玉受験やヤミ献金)に対してペナルティを与えるためには必須のものであり、こういう規範意識があるからこそ社会が維持されていると言えるでしょう。

東日本大震災のあとで「絆」のもとに日本人が心を一つにできたのは、まさに規範意識ゆえですが、その反作用としてその「規範」から外れたことを見つけるとシャーデンフロイデという感情をベースにした「自粛警察」のようなことになってしまうようです。

中野信子さんは、
「いじめは良くないことだ」という規範意識が高いところほど、いじめが起きやすいという調査もあります。
これは規範意識から外れた人はいじめてもいいという理屈と裏返しだからだとか。

ところがこの「いじめ」が厄介で、「あいつだけトクをしているようだ」という疑いをかけられると、誰もがいじめのターゲットになってしまうということです。
まさか生活のためにやむなく経営をしている飲食店が槍玉に挙げられるなんて、令和の由来「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」を聞いていたあの平和なムードの一年前の春にはだれも想像しなかったでしょう・・・。

おわりに

私が『シャーデンフロイデ』を読んだのは2018年のことですが、まさかこんなにズバズバと直近の出来事を指摘するような事が起こるとは予想しませんでした。
しかし大災害が発生するたびに「不謹慎だ!」という動きは毎回発生していますから、これからも残念ながら同じ光景は繰り返されるでしょう。
なにしろ「シャーデンフロイデ」という感情は、人間の「愛」と切っても切り離せないのですから・・・。

さて「いじめ」は誰もがターゲットとなりうるということを書きましたが、ということは次のターゲットは私かもしれないし、この記事を読んでくださっているあなたかもしれません。
(逆に私が「いじめ」の加害者になる可能性もあります。)

そうした理不尽な出来事に対し、「それは違う」と考えを示すのは非常に勇気がいることですが、やはり「匿名で嫌がらせをする自粛警察はおかしい」と声を上げなければならないでしょう。

ドイツの牧師であり反ナチ運動家、マルティン・ニーメラーはこのような詩を残しています。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

さて、誰もが被害者または加害者になりうるとき、守ってくれる人がいるでしょうか・・・、「それは違う」と指摘してくれる人はいるでしょうか・・・。