東日本大震災と原発事故が発生したのが2011年。

そのとき・・・。

「放射能は目に見えない」

「だから安全かどうかわからない」

「だから福島の米は食べない」

「福島の子どもは被曝したのだから差別されて当然だ」

「福島に住むと、将来健康被害が出る」

「その健康被害は将来世代にも続く」

という大した根拠のない偏見が日本の一部で見られました。

あれから9年が経過しました。2020年、世界中で新型コロナウイルスの感染が拡大、日本でも緊急事態宣言が出されました。そして案の定、「福島」が「ウイルス」に置き換わっただけの言動が一部で見られるようになりました。(たとえば県外ナンバーの車に石を投げるなど。)

volkswagen


新型コロナウイルスの感染が拡がるときに、たまたま見たNHK『新・映像の世紀』

一部著名人は新型コロナウイルスをめぐる日本の騒動を集団ヒステリーとする向きもあるようです。
私は必ずしも今の段階で集団ヒステリーだとは断定しません。(2021年4月追記:本当は1年前にこの記事を書いた時、「これはおかしい!」と思っていましたがそこまで踏み込んで表現しませんでした。)

ただ、ちょうど最近たまたま私はNHKスペシャル『新・映像の世紀「第3集 時代は独裁者を求めた」』を見ていて気になる場面がありました。

ウォール街の株価暴落がきっかけとなり、世界は未曾有の不況に突入。各国が個別に景気対策を実行した結果、世界が分断されていったのは有名な話です。NHKスペシャルでは当時のそうした経済政策を軸に当時の独裁者(ヒトラー、スターリン、ムッソリーニ)のうち、とくにヒトラーに焦点を当てていました。

ドイツはアウトバーン建設、国民車構想といったヒトラーの政策で急速に経済が復活し、一躍ヒーローとなりました。何しろ数年前まで天文学的賠償金の支払を背負う一方で猛烈なインフレに苦しみ、失業者は「なんでもやります」という看板を持って街頭に立っていたのに、数年後には自家用車が買えているわけですからそりゃヒーローになりますよね・・・。

その好景気を謳歌するドイツには外資系企業とくにアメリカの企業が進出しました。

そして・・・。


番組によると作曲家ワーグナーの息子ジークフリートの妻ヴィニフレート・ワーグナーがヒトラーの演説に心酔し熱心な支持者になりました。その後ヴィニフレートはワーグナー作品上演のためにアメリカを訪れた際に自動車王フォードと面会し、ナチスの活動を支援するよう説得したようなのです。
ヒトラー自身も「私のインスピレーションの源はヘンリー・フォードだ」と公言していたとか(ただのパクリ?)。

こうしていち早く不況から脱出し一躍欧州の盟主となったドイツは1938年にオーストリアを併合します。
賛否を問うオーストリアの国民投票はおよそ99%が併合に賛成。オーストリアはドイツの一部になりました。

当時の欧米では反ユダヤ主義が幅をきかせており、フォードは「世界に散らばっているユダヤ人が各国で問題を起こしている」という記事を新聞に掲載させていたほど。
ナチスがその正体を現していなかったものの、1920年代から主張していた反ユダヤ主義の立場は理解されやすい土壌があったようで(アメリカにも親ナチ団体があった)、ユダヤ系移民が雇用を奪うという見方が広がっていました。

こういう背景を一言でまとめると、当時ナチスを支持することにはわかりやすい「正しさ」があったということです。(あくまでも「当時は」です。)

私たちがやったことは正しかったのか、後になって振り返るべき

私たちがナチスを批判できるのは、すべての結果を「後になって」しっかりと学習しているからなのです。逆に言うと、私たちが「1930年代のドイツ人」だったらナチスを支持していた可能性もあります。なにしろホームレス寸前だったのに一気に車まで買えるほどの貯金ができた一方で、ナチスがあとで何をしでかすかは全く知らないわけですから・・・。

さて話を最近の新型コロナウイルスにまつわる出来事に戻すと・・・。


上記ツイートは新型コロナウイルス感染拡大に伴って集団ヒステリーが形成されようとしているというご意見へのお返事として私がポストしたもの。
絵は『はだしのゲン』の竹槍訓練の一コマ。当時の日本人にしてみれば、アメリカに負けていたら日本がアヘン戦争後の清王朝みたいになっていたり、最悪植民地になったり併合されたりして公用語に英語を強制されていたり、という未来がリアルに想像されることだったでしょう。まさか敗戦後に高度成長を謳歌するなんて、想像の斜め上すぎて誰もそんなことは思いもしなかったでしょう。

であれば気休め程度でしかなくても竹槍訓練をすること(マスクをすること)は「やらないよりはやったほうがいい」ことであり、訓練をつうじて国民の団結=絆を強めることには(感染症対策のためにみんなで努力することは)それなりの合理性があったと言えるでしょう。

ある意味サラリーマンのネクタイが「仲間同士であるシンボル」とするなら、当時がそれが竹槍であり、今はマスクでもあります。

そこに異を唱えていたのがゲンの父。「みんなが一緒にやっている「正しさ」に私は乗らない」(私はマスクをしない)と言っているわけですから、そりゃ批判されますよね。

ゲンの父の言動を私なりに今のできごとに置き換えると、
「はたして自粛にはどれくらいの効果があるのかね」

「このまま自粛が続くと困窮して自殺する人>コロナの死者になるんじゃないのかね」

「緊急事態宣言で基本的人権が事実上制限されているけれど、基本的人権って『奪うことのできない永久の権利』って憲法に書いてある。基本的人権が明記されたのは結果的に太平洋戦争300万人の犠牲があったからこそだ。『人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果』は『不断の努力』で次世代へ受け継がなくてはならないのに、これまで積み上げた人権の概念をやすやすと政治家に制限させてよかったのかね? 恐怖にあおられて冷静さを失ってるんじゃないかね」

「一度こういう前例を作ると、次はもっと平然と国民の自由を制限するようになるぞ」

ということになるでしょうか。
実際問題、緊急事態宣言から数週間が経過しましたが、ある政治家は早くも当たり前のように「・・・日の間は・・・をしないようにしてほしい」と基本的人権を踏み越えるようなことを言うようになりました。

2020年4月現在、社会は自粛ムードに包まれ、私たちは上述のような政治家の呼びかけに概ね従って生活していますが、科学的に見てどれほど妥当だったのか、いろいろな反省材料がそろってからの十分な振り返りが必要ではないでしょうか。
たとえ善意で自発的にやっている「コロナ警察」のようなことでも、戦時中の「英語排斥運動」のように社会に不利益をもたらすこともあります。
現に、トイレットペーパーが品薄になったのは、品薄というデマを否定するツイートが急増したからかえって「これから品薄になるだろう」という予測が広まってしまったからだと日経新聞が報じています。

おわりに

今回の件ではほぼ全国民が多かれ少なかれ人生を狂わされました。
対策のための膨大な財政出動は現時点の国民だけではなく、将来世代にも確実に負担を負わせます。
失業してしまった人や住宅ローンが払えなくなった人、進学を断念してしまった人が「緊急事態宣言も自粛もちょっとやりすぎだったけど生きてるだけマシでしょ」という説明で納得するとは思えません。

それとも「当時は政府が言っていたから」「みんなしていたから」「あのときは不安だったから」といって自分のしていることを正当化し、振り返りは行わないのでしょうか・・・? それでは黙って太平洋戦争に協力しつつも戦後は何事もなかったかのように日常に復帰した人=いざというときは政府や昭和天皇に責任転嫁する無責任な戦争協力者、つまり当時の国民のほとんどと同じではありませんか。
上記ツイートで「日本人として恥をしりんさい」といっている軍国主義おじさんこそまさにその典型で、後日平和主義者として選挙に立候補します。これは私たちの悪しきカリカチュアではないでしょうか。

ワイツゼッカー・元ドイツ大統領は「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」という名言を残しています。
今回の件が収まってから、政府も専門家(と称する人)も、マスコミも、そして私たち一人ひとりもここ数か月の間に自分がやったことは適切だったのか、冷静さを欠いていなかったかを十分に振り返るべきだと思います。

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