ピアニスト中村紘子さんは1944年生まれ、2016年逝去。中学3年生のときに日本音楽コンクールで史上最年少1位。翌年NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢。
のちにショパンコンクールで日本人初の入賞。
ピアニストとして活躍するかたわらで様々な内外のピアノコンクール審査員を歴任するほか、様々なエッセイを刊行したりテレビCMに登場したりと輝かしい経歴の方です。

その中村紘子さんの晩年のエッセイ集『ピアニストだって冒険する』には、彼女がこれまで歩んできた道のりに戦後日本の経済成長とバブル崩壊後の迷走といった時代が重ね合わせられ、さらには次世代を代表するであろうピアニストの成長を間近で見ての実感が書かれています。

過去のエッセイ集との何よりの違いは、やはり過去に向けてのはるかな眼差しが、本のいたる所で感じられることでしょうか。


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『ピアニストだって冒険する』に見る美しい年の取り方

この本は子供の頃のレッスンを振り返りながら、どんな教師と巡り合うかでそのピアニストのその後がかなり左右されてしまうことが述べられています。
中村紘子さんご自身は人柄のよい師に恵まれ、ワルシャワで習ったジェヴィエツキ、マガロフ、アスケナーゼといった名教師に愛され、ときにはレッスン代を「先生から」借りたこともあったと述懐しています。

他方で日本のピアノ教師は・・・。
私が三歳でピアノを始めた頃の先生方は、みな明治・大正生まれだった。当然のこととして、その音楽家としての感性と技術を磨く一番大切な時期に、一流のオペラやシンフォニーを聴いたり洗練された演奏を学ぶようなチャンスに恵まれないできた方々ばかりだった。もちろん、ヨーロッパに留学した人も居ないわけではなかったが、大抵は行く年齢が遅すぎてどうにもならなかった。西洋音楽への熱い想いがつのればつのるほど、現実即ち思うように演奏できない技術とのギャップは大きく、それへのいらだちが色々な形で哀れな生徒に向って爆発したこともあろう。しかも、音楽の世界だけでなく、一般にも先生が生徒をひっぱたいたり、厳しいと言うにはあまりにもイジメに近いような暴言を吐いたりすることが、社会的にも多めに見られていた時代があったのだ。
小澤征爾さんも師・齋藤秀雄さんからきわめて厳しい指導を受けており、楽譜を指揮台からはたき落とされたエピソードなどが知られています。

このエッセイ集の冒頭はこうした昔のピアノ教師の姿から始まります・・・。

こうした関係性は高度成長期からバブル経済とその崩壊、その後の少子化と音大受験者の減少という時代の流れを経て、先生にとって生徒はお客様になってしまったとか。先生が怖い時代はこうして終わりを告げていきました。
中村紘子さんはピアニストが師と巡り合うことを「冒険」になぞらえています。

冒険というのは多少コワイほうがいいのかもしれない、となんだか昔を懐かしがるなんて、ヘンなのでしょうか。
このように昭和の前半の時代を懐かしがる中村紘子さん。
エッセイ集はページをめくるにつれ、かつての日本人ピアニストが多く採用していたハイフィンガー奏法や、誰もが必ず通る道であるハノンについて回想が進みます。

『ピアニストだって冒険する』の中盤では様々なコンクールの審査員を歴任した経験と、現場で直接目にした若手ピアニストの台頭、日本人ピアニストの一部に見られる未成熟なところなどを指摘しつつ、若い才能が花開くまでには数々の難関を経なければならないこと、そもそもコンクールが必ずしも逸材を評価しきれているわけではないことが明かされています。

このことは中村紘子さんの既刊のエッセイにも書かれていますが、21世紀になってもやはり人が人を評価するということの難しさは解決されていないことがうかがわれます。

さらにページをめくると、若手ピアニスト時代から後進の指導者としての歩み、さらには石原都知事時代に都庁へ「東京都文化施設使用料大幅値上げを許さない芸術・文化団体の会」の実行委員長として陳情したことなどが書き記されており、「文化人」として社会のなかで確かな地位を築くに至った様子が浮かび上がってきます。

その一方では黛敏郎さん、山本直純さん、團伊玖磨さんとの思い出がとくに巻末に収められ、時代の才能が少しずつこの世を去っていったことを実感しないではいられません。

以上のようにピアニスト中村紘子さんの歩みをご自身の視点から晩年の観照とともに振り返った本が『ピアニストだって冒険する』と言えるでしょう。このような形で人生を振り返ることができるのは、過去の積み重ねの一つ一つが書きとめておくに値するだけの、美しい年の取り方をしたからに他ならないでしょう。

人生まさに邯鄲の夢

この本は「邯鄲の夢」という短いエッセイで結ばれています。
1995年ごろのアテネで偶然知り合った日本人の女性「陽子さん」から、今年もまたマロングラッセが届いたというもの。コンクールの審査員としてアテネに滞在していた中村紘子さんは、肝心の参加者がほとんどいない大会となってしまったため時間を持て余し、結果的にエーゲ海の休日を楽しみます。
そのとき知り合ったのが「陽子さん」でした。

あの物静かで慎ましやかな陽子さんからは、以来毎年、十月になるとギリシアのマロングラッセが送られてくる。人生の或る一瞬にすれ違っただけなのに、こうして私を覚えていて下さる。柔らかく甘くとろけるようなマロングラッセを味わっていると、あの時の光景、楽しかったことなどが昨日のことのように甦ってくる。
(中略)
陽子さんとはその後会っていないし、どんな生活を送っておられるのかも、知らない。今や姿かたちもおぼろげとなった陽子さんに、私は心をこめてささやく。
「いつまでもお元気で、マロングラッセを送って下さいね」と。

国際的に活躍するピアニストとして、様々な街での出会いや別れを経験したであろう中村紘子さん。
アテネでの偶然の巡り会いから始まる思い出を契機に彼女の視点は数十年に及ぶピアニストとしてのキャリアの回想へ移り変わり、自分の音楽活動は様々な人に支えられてこそのものであったとの実感に至ります。

こうした文章を読んでいると、中村紘子さんはピアニストとしてだけでなく、大変な文才の持ち主でもあり、戦後日本を代表する稀有な才能であったことがわかります。

さて私もこのように美しい年の取り方ができるだろうか・・・。本を閉じながらそう思わずにはいられませんでした。