イタリアでは自らも新型コロナウイルスに感染しつつも若い人のために進んで犠牲になった神父がいたとのニュースがありました。

新型コロナウイルスによる感染被害が厳しいイタリアで、自分より若い患者にと人工呼吸器を譲った72歳の神父が15日に亡くなり、その犠牲と訃報がソーシャルメディアなどで広く共有されている。

ジュゼッペ・ベラルデッリ神父は、イタリア北部ロンバルディア州ベルガモ司教区にあるカスニーゴの町で司祭長を務めていた。以前から呼吸器系の病気を患っていたため、信者たちが購入した人工呼吸器を、自分よりも若い人に使って欲しいと譲った後、ローヴェレの病院で亡くなったという。

(中略)

ローマ教皇庁の教皇フランシスコは24日、亡くなった医師や司祭のための祈りを先導し、「病める者に尽くすことで英雄的な手本となったことを神に感謝」すると述べた。

カトリック教会イエズス会のアメリカ人神父ジェイムズ・マーティン司祭はツイッターで、「(信者たちが自分のために買ってくれた)人工呼吸器を自分より若い患者に(知らない相手に)譲った72歳のベラルデッリ神父が、亡くなった」と書き、「友のために命を投げ出すほど大きい愛はない」という新約聖書のヨハネによる福音書の言葉を引用した。
(https://www.bbc.com/japanese/52029836より)

私はこのニュースに接し、反射的にコルベ神父のことを思い出しました。

コルベ神父といえば遠藤周作さんが書いた文章が掲載されていた国語の教科書を使ったことがある方もいらっしゃるかもしれません。

コルベ神父の「奇蹟」、遠藤周作激賞。国語の教科書にも載った実話

詳細は記事へのリンクを貼りましたのでそちらをご覧いただければと思います。
短くまとめると、ナチスに囚われたコルベ神父が他の収容者の身代わりとなることを所長(当時)のルドルフ・ヘスに申し出て、その人の代わりに自らが死ぬ道を選んだというもの。

「飢餓室」と呼ばれた部屋で、飢えと渇きのなかをコルベ神父は2週間も耐え抜き、そして最後は注射により殺害されました。

遠藤周作さんはコルベ神父が身代わりとなったことについて、こう書き記しています。

私は「奇蹟」とは不治の悩みを治したり、石を金に変えることとは思っていない。「奇蹟」とは我々が出来えぬことを行うことである。コルベ神父は凄惨きわまる地獄のようなナチ収容所で、我々のできえぬ愛の行為を実行した。これこそ私は奇蹟とよぶ。
これまで会ったこともない、家族でも友人でもない赤の他人が死ぬ代わりに、自分が犠牲となることを申し出る勇気は、私にはありません。
おそらく今生きているほとんどの人も同じ立場だったら自分が生き延びるだけで精一杯だろうと思われます。

コルベ神父は後年、ローマ法王により列聖されました。

ジュゼッペ・ベラルデッリ神父が若者のために人工呼吸器を譲ったとき、コルベ神父をはじめとする数々のクリスチャンたちが自らを犠牲にして他人を救おうとしてきた姿が念頭にあったのかもしれません。

冒頭に引用したニュースでは『ヨハネによる福音書』に触れられています。この福音書には、クリスチャンではない私にも素晴らしいと感じられる言葉が残されています。

「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」。

実際にあった北海道の鉄道事故を元に書かれた三浦綾子さんの小説『塩狩峠』にもこの言葉が引用されています。
「一粒の麦もし地に落ちて死なずば」は、列車の暴走を食い止めるために自らがレールに飛び降り、下敷になって殉職した、クリスチャンであり鉄道職員であった永野信夫の生涯を端的に表現したものと言えるでしょう。

キリスト教は長い歴史の中で数々の失敗を積み重ねて来たという苦い経験があり、今なお時折関係者が過ちを犯しつつも、世界宗教として普遍的な行動規範を様々な立場の人に提供しているのは、やはりこうした自己犠牲を核とする固い信念があるからではないか・・・。

この度のニュースを読み、そう思わざるを得ませんでした。

マスクやトイレットペーパー欲しさのあまり、ドラッグストアの店先で喧嘩をする人もいれば、若い人のために自らが進んで犠牲になる人もいます。
新型コロナウイルスをめぐる騒ぎのなかで、その人の人間性があらわになっているかのようです。


ここに、ベラルデッリ神父の行為に心より敬意を表し、ご冥福をお祈りいたします。