大学入試で「補欠」になったら、その後補欠合格になる場合があります。

そのことは以前このブログで記事にしたことがあります。



手短に繰り返すと、その大学で予想していた入学手続者に満たない場合、大学は補欠合格を出すわけです。
たとえば「一般入試A方式」で「政治学科」は大学の経営方針として50人入学者を出したいのに、入学手続締切日が近いにもかかわらず、まだ40人しか入学手続をしていないとします。
そんなときに、「補欠」となっている受験生から「補欠合格」(繰り上げ合格というときも)を何人か出して、なんとか50人に近づけて定員割れを避けようとします。

私は普段大学入試関係の仕事をしているので大学の経営事情もよくわかりますが、要するに定員ちょうどに入学者を近づけるための微修正として補欠合格というものを出しているわけです。

その一方で「補欠」になったのにいつまで待っても補欠合格にならないというときもあります。
それはつまり・・・。

goukaku


補欠通知。その後、「定員に達した」=不合格というときも

お知らせを送る・送らないの方針は大学によりけりですが、補欠の知らせを送ったあとで、後日「定員に達したので、もう補欠合格は出ません」という内容のお知らせを送付する学校もあります。

表現を変えると、「新型iPhoneが欲しいのでアップルストア開店前に店先で行列を作っていたが、自分の目の前で『はい、ここで売り切れです』となってしまった」ようなものです。

この場合iPhoneは買えません。つまりあなたは不合格です。

補欠の席次を公表していない大学の場合、補欠合格は何番目の席次まで出たのか、自分の補欠の席次はいくつだったのかは結局わかりません。
惨敗だったのか、紙一重での不合格だったのかは、あとで成績開示請求をして合格最低点と自分の得点の差を確かめてみないとわかりません。

私立大学ではここ数年、定員厳格化の方針を文科省が打ち出したことにより「つじつま合わせ」で補欠合格を3月下旬まで出すことが当たり前のようになっています。
結果的に受験生が振り回されることになっており、誰得で何得の政策なのか首をかしげざるを得ません。

補欠合格ではなくてむしろありがたかったのかも?

狙っている大学の「補欠」にはなれたが、結局「補欠合格」にはならなかった。
悲しいことでしょうか?

よく考えてみると、その場合あなたはボーダーラインギリギリで入学したということになります。
ということは入学時点では最下位クラスの学力層ということになります。

新学期の英語のクラス分けテスト(TOEFLやTOEICのIPテストを実施する大学もある)などで案の定一番下のレベルに割り当てられて劣等感を感じたり、そうでなくても最初の授業から他の学生との差を感じてしまったり・・・。

春からいきなり劣等感を感じまくるのって、メンタル的にどうなのでしょうか。
そこで心機一転、猛烈に勉強して抜群の成績をおさめ、トヨタやJRに就職・・・できればいいのですが、ほとんどの学生はそこまでの大手に就職できません。自分はそうじゃないだろう、と思っている人も(いや、勝手にそう思い込んでいるからこそ)確実にトヨタだろうがJRだろうがとにかく落ちます。断言します。

とはいえ世の中には慰めになる考え方もあります。
このブログではたまにマルクス・アウレリウスの『自省録』の言葉を引用することがあります。
世界史を選択した人ならきっとご存知のはず。
ローマ帝国の五賢帝の一人であり、哲人皇帝とも呼ばれていました。
彼は次のような言葉を残しています。

君がなにか外的の理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。

入試に落ちたことで苦しむとすれば、あなたが悩んでいるのは「落ちた」ことではなく、「落ちたことで希望の大学へ行けず、悩んでいる」からです。
しかしギリギリのところで合格しても上述のようにミスマッチを感じてしまう可能性もあります。
むしろ縁があった大学の長所を見つけ、ポジティブに捉えるというのも考え方として十分アリではないでしょうか。

もちろん浪人して再チャレンジをしても構いません。
いずれにしても充実した4年間を過ごすことが最大の目的であって、「どの大学へ進学するか」はそのための手段でしかありません。(世の中には手段と目的を混同して、はっきりとした理由もなく東大・京大合格や大手企業への就職に固執する人がいます。)

補欠合格にならなかったからといっても人生がそこで終了してしまうわけではありませんから、くれぐれも過度に気落ちしないことが大切だと思います・・・。