ブログを運営していると孤独感に襲われることもあると思います。

私はとくに最初のうちがそうでした。記事を書いてもアクセスがほとんどありません。
一説によるとスパムを警戒したGoogleがエイジングフィルターというものをかけており、とにかく検索に出てきにくくなっている(下位表示されている)とか。

真偽の程は不明ですが、とにかくまあったくアクセスがない。

世の中のブログのうち75%は一日のアクセスが50に満たないという話は聞いていましたが、ブログを初めて3ヶ月近くたったときでも自分は0PVの時もありました。このときはさすがに「なぜだ!!」と理不尽な思いがしました。

同時に、「砂漠に水を撒いてるのと同じだ!」「ワイはひとりぼっちや!」とも感じました。
現にこのブログは「友だちいない研究所」と言います。友だちがいない私がひとりぼっちの日常などを書き連ねるのが当初の目的でした。

それはさておき、なぜこういう孤独感にとらわれるのか、またどう立ち直るのか、少し考えてみたいと思います。

solitude


ブログを運営していて孤独感にとらわれるのはなぜ?

ブログ運営にあたっては2種類の孤独感があると思います。
1)誰からも見向きもされないという孤独感
2)表現の道を追求するときの孤独感


誰からも見向きもされないという孤独感

バンドなどをやったことがあると実感頂けると思うのですが、ステージで演奏を披露しても、お客さんから反応がないと孤独感というか、虚しさを味わいがちです。
この記事の末尾に関連記事をご紹介していますが、そちらではアマチュア時代のGLAYがライブをしたもののお客さんがゼロで、TAKUROさんは心が折れそうになった話を書かせて頂いています。

つまり愛情の裏返しは憎しみではなく無関心という言葉がありますが、人は自分という存在に反応がないと孤独感を感じてしまうようなのです。

人間は社会という集団を結成することで他の生き物との生存競争に打ち勝ってきたわけですから、そういうようにDNA的にプログラミングされてしまっていると割り切るしかありません。

最近私は作家・遠藤周作さんの本を読む機会が増えたのですが、あるとき「これはブログを続けていて孤独感にとらわれる理由の説明にもなっているじゃないか」と気づいた文章に接しました。

それは『キリストの誕生』という本(『イエスの生涯』の続編)です。この本ではイエスが神格化され、キリスト教が世界的な宗教となっていった理由の一端について、「イエスがつとめて関わりを持とうとしたのは、ローマ帝国の貴族や成功した商人たちではなく、重い病を負った者や貧しい者たちばかりだった」と説明しています。
誰からも見捨てられた人にも手を差し伸べるイエスの姿は、死後神格化されました。
遠藤周作さんはこう本を結んでいます。
人間がもし現代人のように、孤独を弄(もてあそ)ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処(どこ)かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。

だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ。キリスト教者はその歴史のなかで多くの罪を犯したし、キリスト教会も時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ。
ここではキリスト教の特質と教会のあゆみを遠藤周作さんなりに端的に説明しています。
人は心の中に「反応してくれる誰か」を求めずにはいられない生き物のようです。
だからこそブログに反応がないと、孤独感を感じてしまうのではないでしょうか。

表現の道を追求するときの孤独感

ブログ記事作成にあたっては、執筆者が知らないこと・体験していないことは書けないという制約があります。つまり「できないことは書けない」「知っていることは書ける」「身にしみて感じていることはいくらでも深い表現ができる」という点で属人性がものすごく高いのです。

深い表現をしようとすればするほど、それだけ記事作成のために色々な体験をしなくてはならず、その体験を文章として表現に練り上げていくための時間がかかり・・・、となるとどうしても「一人で物事をまとめていく」という作業が必要になります。

勢い、サラリーマンなら残業も飲み会もカットすることになります。
私の場合は2年以上同僚と一度も昼ごはんを食べていません。要するに時間が惜しいのです。ブログネタを考えたり、リード文を作ったりといった時間のほうが、同僚と話をするよりも価値があると思っているのです。

インフルエンサー、はあちゅうさんはそんな私の気持ちをうまくまとめてくれています。

ただしサラリーマンがはあちゅうさんのこのツイートに共感できるようになると、「みんなと一緒に残業したり飲み会に行ったりして一体感を味わった!」という「人間関係ごっこ」に違和感を感じるようになります。
そもそもブログをやっている人はそういうタイプの性格ではないかと思います。

さて浮いた時間でブログという器に自分の表現を盛り込むわけですが、表現が深くなればなるほど、周りには人が少なくなり、わかってくれる人も減ってきます。これが2種類めの孤独感です。

私はロトの石版になりたい

この孤独感ですが、私は「ロトの石版になりたい」という思いに至り、自分の孤独感と折り合いをつけました。
「ロトの石版」とは、名作RPGドラクエIに出てくるアイテム(?)のこと。
最初の洞窟に挑んだ勇者=あなたは、自分のはるか昔の時代にやはり魔王を倒そうとした勇者がいたことを、石版に書かれたメッセージを通じて知ります。
そのメッセージを通じて、勇者=あなたは自分が何をすべきか指針を得ることができます。

ブログもやはり「ロトの石版」と相似形を成しているのではないでしょうか。
私のブログ記事で言えば
・大学の授業でグループワークをやれと言われたが、一人ぼっち。それで私はどうなったか
・フィギュアスケート〇〇選手がSPで使っている曲はどんな曲なのか
・小説『〇〇』はこういう点が素晴らしいので読むべき
・AO入試で「アドミッション・ポリシー」について問われたらどう答えたらいいのか
というようなことが書かれています。

このような記事がもしかしたら知識やノウハウを提供できているのかもしれない、誰かの背中を押せているのかもしれない・・・。だとしたらこのブログもちょっとした「ロトの石版」だ・・・。
そう思うようにしています。

願わくば最終的には自分の好きなことを語ってどんどん人が付いてきた映画評論家・淀川長治さんのようになれれば最高なのですが・・・、このブログの延長線上に淀川さんがいらっしゃるとはとても思えません。つまりは器量とか才能とかいろんなものの差ですね・・・。

この記事をお読みの方もおそらくブログをやっていると思うのですが、どうか誰かにとっての「ロトの石版」となれますよう、同じブロガーとして陰ながらエールを送らせていただきます。




追記:ブログ運営にあたり、わたしはかん吉さんの以下の著作を参考にしています。
SEOなどの技術ではなく、「信頼を積み重ねよう」というある意味ビジネスの王道とも言えることが書かれている、完成度の高い本です。