ノー残業デーを採用している企業も多いでしょう。

私の勤め先もそのひとつ。ある特定の曜日をノー残業デーとして設定しています。

東日本大震災をきっかけに節電の機運が高まったころに設けられたこのルール。
最初のうちは管理職の人が「本日はノー残業デーです」と定時になると告知していました。

震災の記憶が生生しく残っている間はそのルールもきちんと実施されていました。
「節電しないとだめだ」という大義名分があったからかもしれません。

ところがノー残業デーという言葉そのものが、数年経つとだれも口にしなくなり、本来ならノー残業デーの日であっても意味もなく(?)仕事をしている人が目立つようになりました。

なぜこんなことに・・・?

sontaku


ノー残業デーが無意味、誰も帰らず風化する理由。やはりアレが原因だった?

日経新聞の2019/12/15付記事「世間は正しい パナソニックの「忖度」壊すプロ経営者」を読むと、短いながらも的を射た言葉が掲載されていました。

パナソニックで法人向けシステムの事業を担う社内カンパニー、コネクティッドソリューションズに社長として着任した樋口泰行さん。

樋口さんが目にしたのは同社に蔓延する内向き志向でした。

これを打破するためにオフィスで席を決めないフリーアドレス制や服装を自由にするなどいろいろなルールを設けました。
「日本企業が復活するためには風土を改革し、社員の意識、行動を変えないといけない」。樋口にとってパナソニックを含め、日本企業を最も的確に表す言葉は「忖度(そんたく)文化」だ。どんなに強く「変わる」と言葉にしても、言葉の外にある雰囲気ばかりにとらわれ、無言で順応していく負の「復元力」が日本企業からはどうしても拭えない。

実際、CNS社社長に就任して間もなく部下が上司に「週報」を提出する慣習を廃止するよう指示を出したが、半年近くたっても名前を変えて継続する部署があった。
赤字の強調は私によるものです。

ノー残業デーがいつの間にか形骸化してしまう犯人は・・・、「忖度」だ!

私は以前の記事
で大前研一さんの言葉を紹介したことがあります。
プレミアムフライデーの空振りから強く感じられるのは、休暇が取りにくい日本の労働慣行であり、休みさえ指示命令がないと取れない、「取れない」というより「取らない」心理である。上から「休暇なんか取るな」と言われるまでもなく、そう思ってしまうメンタリティは相当に深刻だ。森友学園や加計学園の問題で官邸の最高レベルに対する官僚の「忖度」が問題になっているが、日本のサラリーマン社会も「忖度」のネットワークが張り巡らされていて、社員を雁字搦めにしている。有給休暇が半分しか取れないほどに、である。
ノー残業デーに即して言うなら、ここにA、B、Cの3人がいるとします。
彼らの心理はこんなものではないでしょうか。
A「BもCもまだ帰らない。なのにいま、私が帰ったら悪目立ちするだろう。だから帰らない」
B「AもCもまだ(以下同文)」
C「AもBもまだ(以下同文)」

これも過去記事になりますが、
で、私は次のように書きました。
個人の都合よりも社会の都合を優先することが美徳であるコミュニティでは「協調性の高さ」が評価の尺度となります。

これを「向社会性」といいますが、この傾向が強い日本では合理的判断よりも集団的協調が重んじられ、つまりは空気を読むこと、忖度することが重視されます。
事実、日本では自分で意思決定することを楽しいと感じる人が27%しかいないとのこと。(東アジアではおしなべてこの傾向がある模様。欧州では60%が自分で意思決定をしたい傾向が見られたようです。)
こうした社会では「隣の人の様子を伺う」ことが優先されます。
有給消化率はぜったいに上がりませんし、ノー残業デーも機能しません。

「隣の様子を伺う」こと=忖度できることと「優秀さ」がイコールに近い日本社会。
おそらくですが、これは過去何千年もの歴史を積み重ねた結果ですので、私たちが生きている間に変わる可能性は絶望的であり、「働き方改革」なども表面的な効果しか上がらないと思います。

もっとひどいとこんなことに・・・?

つまり「みんなが残業しているから」私も残業するという・・・。でもそれは仕事じゃなくてただの人間関係ごっこです。(個人的な経験では女性にこのパターンが多いです。)

おわりに

つまるところ、働きにくさを作り上げているのは私たちの心にある忖度そのものです。
たしかに忖度は情緒としてはうるわしいものですが、会社は価値創出を通じて利潤を追求する目的のために存在するのであり、人間関係維持のために設置されたものではありません。
その目的達成にあたり忖度が足を引っ張りがちなのは、上に書き記したとおりです。

では改善するためにはどうしたらいいか。
自分なりに実践していることとして、心の中の忖度を押し殺すようにしています。
「これをやったら自分のいないところで陰口を言われるだろう」とわかっていても、私は忖度しません。

これを「嫌われる勇気」というのかもしれません。とはいえ同僚は家族でも友人でもなく、退職したらお互いに会うことは絶対になく、つまり人生の中での重要度は正直低い・・・、私はそう冷たく割り切っています。

冷たいようですが、忖度をし続けて何も変わらないよりよほどマシだと思っており、もしかすると私に影響されて他の人も「なんだ、これをやっていいんだ」という発想になる人が出てくるかも・・・、と思っており、私は毎日忖度しないことにしています。