2019年11月9日、めぐろパーシモンホールにて行われた「フレッシュ名曲コンサート」。

この催しのなかでチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』のソリストに起用されたのは東京藝術大学在学中の荒井里桜さん。

彼女の演奏を聴くのはほぼ1年ぶりのことで、自分の考えを整理しつつ感想をブログ記事として書きとめておきたいと思います。

ちなみに私自身もヴァイオリンを弾くのが好きで、とはいえ専門の課程で学んだというわけではなく、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第3番』がかろうじて弾ける程度・・・。分かる人には「ああ、あれね」と分かるかと思うのですが、弾くたびに第1楽章のサム・フランコのカデンツァで決まって大爆死します(ということは実際は弾けてないってことですね)。

st-petersburg-russia-3747214_640


チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』について

1年前は羽村市でブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』を演奏していた荒井さんですが、本日のチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』はそれと同時期に成立したもの。

とはいえ曲に盛り込まれた感情はそれぞれ異なっており、チャイコフスキーの場合はロシア情緒が至るところに顔を出します。
さらに、チャイコフスキーがこの曲を捧げるつもりだったレオポルト・アウアーからは「演奏不可能」として拒まれたというエピソードからも伺われるように難技巧が続出しています。
たとえば・・・。

concerto
この画像は無料で楽譜がPDFで閲覧できるIMSLPというサイトからの引用になりますが、『ヴァイオリン協奏曲』には最初のページから「嫌がらせか」と思うようなフレーズが沢山あります。

私自身もチャイコフスキーの「懐かしい土地の思い出」という曲集に収められたとある小品を弾いたことがありますが、チャイコフスキーはこういう全音・半音の区別がややこしいフレーズを(矛盾する言い方ですが)さらっと、かつねっとりと演奏できないと「らしさ」が出てこないようなのです・・・。

荒井里桜さんの演奏するチャイコフスキー『ヴァイオリン協奏曲』、怜悧な演奏

さて荒井里桜さんの演奏するチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』ですが、上記のようなチャイコフスキー的なフレーズであったり、その後も続出する重音奏法などの難しい技巧もなんのその、冷静に乗り越えていく様が印象的でした。

実際問題、聴いている方はなかなか気づかないものですが、ヴァイオリンを綺麗に鳴らすためには音階練習やボーイング(弓使い)の練習といった気の遠くなる地道作業を毎日継続する必要があります。
荒井さんが全編30分を越えるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を破綻なく演奏しきったということは、やはり日々の基礎技術を積み重ねてきた量が膨大であることを伺わせるものです。

昨年のブラームスではどちらかといえば美音をベースにしつつも情熱的な演奏でしたが(過去のヴァイオリニストと比べるならグリュミオー風)、本日のチャイコフスキーでは的確な技術を元に細かい音符一つ一つを入念に彫琢してゆく怜悧な演奏(例えるならヒラリー・ハーンなど)であったように思われました。

ここまで細やかに協奏曲を演奏できるということは技術水準は概ね十分であり、あとはチャイコフスキーなりモーツァルトなりベートーヴェンなり、作曲家それぞれのイディオムをどう自分なりに消化し、表現として磨き上げてゆくかが唯一かつ今後何年もかかるであろう課題ではないかと思います。

かつて諏訪内晶子さん、川畠成道さんなどたくさんの弟子を育てたヴァイオリニスト・江藤俊哉さんは「ヴァイオリンを上手に弾ける人がヴァイオリニストで、音楽家というのはさらにそれに音楽的表現を加えて弾ける人で、芸術家というのはその音楽に魂を込めて弾ける人だ」とおっしゃっていたそうです。(注:川畠成道さんの著作『耳を澄ませば世界は広がる』より)

この過程を辿るには様々な意味での経験が必要であり、荒井里桜さんもどうか毎日を充実させつつ、その道程を着実に歩んでいただきたいと思いました。
本日の指揮者であった飯森範親さんからも共演者の荒井里桜さん、ピアニストの吉見友貴さんについて「これからの活躍を一層期待している」といった内容のお話をステージ上でされていました。

私自身としてもまさに同感であり、若い才能がなお一層羽ばたけるよう、若手演奏家のコンサートには積極的に足を運び、その成長を陰ながら応援していきたいと強く思った次第です。