バッハの『マタイ受難曲』を聴くうえで、新約聖書のことを理解しておいたほうが良いだろうと思い、久しぶりに本棚から引っ張り出したのが遠藤周作さんの『イエスの生涯』

この本は『死海のほとり』を執筆するために遠藤周作さんが資料を集めた成果が披瀝されています。
実際に読んでみたところ、歴史上最も有名なはずのイエス・キリストが、じつはかなり孤独な人物だったのではないかという印象を持ちました。

このブログは「友だちいない研究所」と言います。
友だちのいない私=このブログの管理人が、友だちいない(ぼっちな)人の日常などを考察するためのものでした。
したがって、「孤独」という言葉とかイメージにはビビっとくるものがあります。
しかしまさか『イエスの生涯』でビビっとくることがあるとは・・・。

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イエス・キリストの孤独とは

イエスが布教活動を始める前に、洗礼者ヨハネのもとを訪れ、彼が率いる教団に弟子入りしたということになっているようです。
ヨハネを支持する民衆がいずれ自分に歯向かってくる・・・。当時のイスラエルの領主、ヘロデ・アンテパスはそうした恐れを抱くようになり、ついにヨハネを逮捕します。

ヨハネ本人は反乱をおこすことは考えていなかったようですが、「指導者の理念がどうであれ、民衆がその人を樹立して雪崩のように別の方向におしながされていく場合がある」(『イエスの生涯』)。

つまり民衆がヒーローと仰ぐ人物を自分たちの理想とみなし、いわば虚像を実像と勘違いしてなんらかの社会運動が沸き起こってしまうようなのです。

洗者ヨハネの運命は、たしかにイエスに深い悲しみと共に今後の方法についての示唆を与えた。指導者が民衆を引きずる時期がすぎると、今度は民衆が指導者をまきこみ、その意志とは別の方向に進むことをイエスはこの事件から学ばれた。その後、彼と弟子との関係で慎重な配慮がみられるのは、一つにはこの洗者ヨハネと同じ運命を踏みたくなかったからであろう。
(引用:前掲書)

イエス・キリストはアイドル?

やがてイエスが弟子たちを率いて自らの布教活動を始めます。
ヨハネの厳しい、民衆を叱りつけるような威嚇的な神のイメージがつきまとう教えとは対照的に、イエスの教えは愛に満ちたものでした。

重荷を負うている すべての人よ
来なさい わたしのもとに
休ませてあげる そのあなたを(マタイによる福音書より)

マグダラやカペルナウム、ベツサイダのような漁村を回るイエス。日に日に旧来の厳しい神の姿とは異なる、愛を基軸とした神というものを提示した彼の言葉に耳を傾ける者たちは増えていきました。

だがこの時、彼(イエス)はもう一つのことも知っておられた。現実における愛の無力さということである。彼はそれら不幸な人間たちを愛されたが、同時にこれらの男女が愛の無力さを知った時、自分を裏切ることも知っておられた。なぜなら現実世界では結局、効果を求めるからである。

(中略)

「奇蹟物語」は私たちにイエスが実際に奇蹟を行ったか、否かという通俗的な疑問よりも、人々がイエスに結局は愛ではなく、徴(しるし)と奇蹟しか求めなかったという悲しい結末を想像させるのである。そしてその望みがかなえられなかった時、人々はどのように烈しく怒ったかをルカ福音書の四章二十八節がふと洩らしているのだ。

(中略)

彼が闘わねばならぬものはこの時、ひょっとすると、自分をとり囲み、訴えと期待の眼差しを向けてくるこれら無数の男女だったのかもしれぬ。イエスは弟子たちのなかでさえも孤独だったのである。

このように、自分がせっかく「愛」の価値を力説しても、民衆が本当に期待していたのは実利でした。
この実利が叶えられないとわかると、たちまち民衆はイエスを見放してしまうのでした。

のちにイエスはゲツセマネで逮捕され、そしてご存知のように処刑されてしまうのです。
歓呼の声をあげてイエスを迎え入れた民衆たちは、十字架を背負う彼を罵倒します。
ところがイエスが処刑されると、今度は「やはり彼は神の子だったのだ!」と後悔します。

遠藤周作さんはマリー・アントワネットにまつわる歴史小説を執筆していますが、フランス革命における民衆の姿を「黒い歴史の流れ」と形容しています。
ルイ16世とマリー・アントワネットを処刑しようと突き進む民衆の姿は、どこかその1800年前のエルサレムの「無数の男女」たちと似ていなかったでしょうか。

もちろん現代社会でも似たようなことは無数にあるはずで、例えば政治家やアイドルを祭り上げて、「小泉フィーバー」のような現象がおこります。
ところが小泉総理が辞任したあとで、自分の思い描いていた生活が訪れないとわかると、たちまち「小泉改革のせいで格差が拡大した。雇用が失われた、けしからん」などと・・・。

あるいはアイドルを持ち上げて「アイドル誰々はキリストを超えた」のような煽り文句まで登場して・・・。そのアイドルの様子が写真週刊誌に掲載されると「裏切られた」などのように怒ったり・・・。

こう考えると、福音書に描かれたイエス・キリストの物語というのは宗教的な内容にとどまらず、いつの時代でも変わることのない普遍的な「人間とはなにか」という問いへの一つの貴重な示唆であり、カエサルの「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」という言葉が人間の判断力の危うさを突いた名言であることがわかります。

おわりに

『マタイ受難曲』を聴くことがなければ、『イエスの生涯』を読むこともなく、またイエスの孤独な姿を垣間見ることもなかったでしょう。
『イエスの生涯』は文庫本で簡単に入手することができますが、さすが大作家による本です、イエスの人柄について深い洞察が感じられます。

何年かぶりで読み返しましたが、折に触れてこれからも目を通したい1冊だと思いました。