新海誠監督の新作『天気の子』。映画は大ヒットを記録しています。

やはり新海誠監督の執筆による同名の小説から、いい文章だと思った箇所を自分なりに以下のとおりメモします。

結論から書いてしまうと、AというムードとBという別のムードの描き分けが上手く、しかもそれが映画のカメラ回しをどことなく連想させるものがある・・・、それが私の考えです。


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小説『天気の子』。名文だと思う箇所と、その理由

雨と風が吹き付ける六本木ヒルズの屋上スカイデッキは、どこか船の甲板を思わせた。
だだっ広いヘリポートを中心にマストのようなアンテナが何台も配置されていて、そのいくつかの先端では、神聖な松明のように赤い光がゆったりと明滅している。眼下の地上は薄いもやに覆われていて、そこから突き出たビル群はまるで海面から伸びた古代の柱のようだ。まだ夜が訪れる前なのに、街のあちこちに光が灯っている。

陽菜さんはその広大な屋上を、まっすぐ西に――夕陽があるべき方向に歩いて行く。負け知らずのアスリートのようなその足どりを、僕たちは屋上出口に留まって見つめている。やがて西の端に辿りついた陽菜さんは、いつものように手を組んで目をつむる。彼女はそうやって、僕たちの――皆の願いを、空に届けるのだ。

映画をご覧になった方はご存知だと思います。お天気ビジネスがヒットした帆高と陽菜は、「花火大会を晴れにしてほしい」という依頼を受注しました。

陽菜は六本木ヒルズの屋上で雨がやむ祈りを捧げる場面が、この文章です。

前段では六本木ヒルズの屋上から見た東京の風景を幻想的に表現していますね。
「神聖な松明」、「海面から伸びた古代の柱」というフレーズが何やら神秘的なムードを醸し出しています。
この場面はまさしく「祈り」を捧げるわけですが、「祈り」という言葉には宗教とか神とかいった概念を当然に含みます。
その意味で、「神聖な松明」、「海面から伸びた古代の柱」という言葉を持ち出すのは本当にぴったりなことです。

後段で、陽菜の足どりは「負け知らずのアスリート」と表現されていますね。
前段では宗教的なムードを作った一方で、こちらでは巫女とか神官ではなくアスリートという単語が出てきました。

アスリートといえばテニスとか、トライアスロンとかの競技選手。
スポーツは大抵勝負を争って行われるもので、「負け知らず」と書かれているので、必ず晴れにしてみせるという並々ならぬ強い意志のようなものが足どりから伝わってくることが浮かび上がります。

以上を整理すると、

・前段で神秘的ムードにしておいて

・後段でその静けさを打ち破るかのような秘めた闘争心を描く

というコントラストが表現されていると考えられます。

カメラの回し方を連想させる文章

こう考えると、この場面は「カメラ回し」を連想させるものがあります。
Aという場面を映し出して、その直後にBという違う場面を写せば、そこに対比性が生まれるわけですから、映像にドラマが出てくることになります。

引用した文章でもやはり対比性がありますから、映像をどのタイミングでどう写そうかを常に考えている映画監督らしい描き方だと思います。

もちろんこの場面以外でも、小説の視点は基本的に帆高ですが、ところどころで「口コミA」「依頼人B」といった第三者的視点が挟み込まれたり、陽菜たちの視点に切り替わっていたり。
こうして複数の視点から語られることで物語に厚みが加わっています。

もちろんいろいろな視点から小説を書くというのはよくあるテクニックです。
しかし普段映画を制作している新海誠監督なりに場面Aを描いて、場面BをCさんの視点から表現して・・・のような切り替えのタイミングをどうするかという点には、映画を制作するときの監督ご自身なりのテクニック(というか、コツ・ノウハウのようなもの)と何かしら共通点があるのかもしれません。

こう考えると、単なるノベライズとしてではなく、新海誠監督の映画作りのパターンと文章表現の共通性はどれくらいあるのかといった観点からも『小説 天気の子』は楽しめるのかも・・・?



さっそく映画の音楽をピアノに編曲した楽譜も発売されているのですね・・・。
暗譜しておいて誰かの家に行った時にさらっと弾けるとかっこいいでしょうね!