NHKの朝ドラ『なつぞら』。

この作品では北海道から兄を探しに、またアニメーション映画製作の仕事に就きたいと願い上京してきた主人公・奥原なつ(広瀬すず)が新宿の「川村屋」という洋食屋にお世話になるシーンが描かれています。

この「川村屋」というのは、「インドの革命家をかくまった」などの台詞の端々から明らかに新宿に今も実在する老舗「中村屋」と考えられます。

では作品に登場するマダム前島光子(比嘉愛未)のモデルは誰かというと・・・。

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マダムのモデルは相馬黒光とすると計算が合わない

調べてみたのですが、相馬黒光(そうま こっこう、1876年9月12日 - 1955年3月2日)であるとする意見が多く見られました。

相馬黒光は夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家です。
ウィキペディアにはこう書かれています。
勤め人を嫌った愛蔵の意向で、1901年東京本郷に小さなパン屋中村屋を従業員ごと買い取り、開業。1904年にはクリームパンを発明した。1907年には新宿へ移転、1909年には新宿駅近くに開店した。

夫とともに、中華饅頭、月餅、インド式カリー等新製品の考案、喫茶部の新設など本業に勤しむ一方で、絵画、文学等のサロンをつくり、荻原碌山、中村彝、高村光太郎、戸張弧雁、木下尚江、松井須磨子、会津八一らに交流の場を提供し、「中村屋サロン」と呼ばれた。また、岡田式静座法を信奉し、10年間一日も欠かさず静坐会に出席した。

黒光は、愛蔵の安曇野の友人である荻原碌山の支援者となり、碌山の作品『女』像は黒光をモデルとしたものだと言われている。また、亡命したインド独立運動の志士ラース・ビハーリー・ボースらをかくまい、保護した。1918年に長女 俊子がボースと結婚した。そのほか、ロシアの亡命詩人ワシーリー・エロシェンコを自宅に住まわせ面倒をみ、ロシア語を学んだりした。夫が死去した翌年の1955年、78歳で死去した。

この説明は、川村屋のシーンでの台詞の端々ににじむ文化的な雰囲気がそのまま当時の中村屋に見られたことをうかがわせるものですね。

中村屋はボースやエロシェンコとの親交から純印度式カリーやボルシチといった商品をメニューに加えていきます。当時の日本は英国と同盟関係にあった(日英同盟)ため、インドの独立運動が高まることは外交的にマイナスととらえたのか、ボースを日本から退去させようとしていました。
このときに中村屋が彼をかくまったと伝えられています。

また、エロシェンコとの交わりが始まったきっかけは、相馬黒光がロシア語に堪能でロシア文学に造詣が深かったからだそうです。

文化的な雰囲気の川村屋

「川村屋」のマダムの執務室のような部屋には絵画が飾られていますが、中村屋もビルの中に美術館を併設しており、食事だけでなく芸術を味わうこともできるようになっています。

マダムがなつの兄・咲太郎の勤め先であるムーランルージュを取り戻そうと咲太郎のために借金の保証人になったのも、上記のような文化的な雰囲気の中で育ったという人物像だからではないでしょうか。
ちなみに借金の額は10万円。昭和30年当時の国家公務員初任給(大学卒業程度)は8,700円だったようですので相当な金額です。

さて、肝心の相馬黒光は1955年(昭和30年)没。
『なつぞら』は昭和30年代の物語ですから、マダム=相馬黒光とすると明らかに若すぎるのです。
世代的には相馬黒光の孫にあたる(1920年代ごろの生まれ?)と考えるのが自然ではないでしょうか。

あくまでも『なつぞら』はフィクションであり、完全な史実の再現を狙っているわけではありませんから、「こういう人物がドラマに登場するが、歴史上にもこういう人物がいて設定づくりの参考になっているらしい」程度の理解でちょうど良いのかもしれませんね・・・。

ちなみに、中村屋のカリーは通販でも買えるようでした・・・。
この記事は夜に書いていますが、突然お腹が空いてきました・・・。




参考資料等:中村屋のウェブサイト、とくに以下のURLを参考にさせていただきました。
また本記事中の人名は敬称略とさせていただきました。

http://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/founder/